土木,建築視点でも、似たものならここにもある…「伊勢堂垈遺跡」にある古代~中世の空堀跡、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949
チャシの話をしていこう。
SNS上でも話題になっていたが、チャシの構築者は誰か?何時から構築されていたのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/21/052745
東北に残される平安期の「防御性環壕集落」跡を再度手直しして、中世山城の郭としたのではないか?と、筆者は考えていた。
それは十三湊の「福島城」などで、ある程度確認されている。
なら北海道は?
現状、道南十二館比定地の発掘で一部は、やはり擦文(平安)の防御性環壕集落だった事が解ってはいる。
なら、江別チャシらは?

ところで…
北海道~北東北の縄文土器文化圏として、ユネスコ登録に向け、それは妥当との勧告がなされた。
そんな話もしていた為、筆者は四基の巨大ストーンサークルを持つ「伊勢堂垈遺跡」の写真を蔵出ししていたのだが…
気付いてしまう方は居られるもので。
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中世とされる「空堀跡」が残される。
これが江別チャシや二風谷ユオイチャシとそっくりなのだ。
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これはユオイチャシ。
河岸段丘の舌状台地の根元に空堀構築し、切り離したタイプ。
と言う訳で、折角なので伊勢堂垈遺跡を訪問し確認、更に発掘調査報告書でこれが何時どの様にして構築されたのか?探ってみた。
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これが現存する二条の空堀
空堀は長さ45m×幅6m×比高差2m。
平安期の防御性環壕集落跡としたら、若干サイズは大きいが、絵に書いた様な構造。
但し、二条なので畝状空堀群の原型みたいな雰囲気がある。
伊勢堂垈遺跡縄文館でお聞きした話と発掘調査報告書の記載内容を要約してみよう。

①発掘は、1,2次が埋蔵文化財センターが担当、以後は北秋田市教育委員会が発掘や纏めを行い、17次発掘で空堀そのものの発掘を行っている。
埋蔵文化財センターの発掘時に、空堀は確認されているが、発掘範囲から外れていた為、北秋田市の発掘に委ねられた経緯はある。この舌状台地は東地区として先端部のみ埋蔵文化財センターが発掘しており、壕状遺構(空堀とは別)や土坑は検出していた。
③縄文館では少々離れた位置に竪穴住居跡(平安)があるとの事だったが、環状列石Bの側、距離約350m離れている事を教えて戴いた。
報告書ではその竪穴は、竈あり,遺構内に「九」記載の墨書があり,須恵器転用硯ら遺物傾向から平安のものと考えられる。
空堀のベースに十和田火山灰(915年降灰)があるので、915年以降に構築された空堀である。又、空堀をトレンチ掘削したところ、空堀より下の土層で縄文の竪穴,土坑が検出された、
⑤1,2次発掘で検出した、舌状台地先端部の溝状遺構は、積極的に時代を表せない。層序が薄く遺物が少ない。
⑥⑤の溝状遺構の直ぐ側に土坑が幾つか検出。穴径らから上屋があった様な事もあり得るとしている。
但し、これら土坑~空堀迄の一帯は未発掘で詳細は解っていない。
⑦埋文は、どちらかと言うと環状列石B近くの竪穴との関連を、北秋田は近くにある浅利氏の家臣小勝田伝兵衛の「小勝田館」との関連をそれぞれ想定している様な印象を受ける。しかし、どちらにしても遺物不足で決め手が現状は無し。

以上の様な感じであろうか。
いずれにしても、伊勢堂垈遺跡としての保存範囲内ではあり、これ以上発掘するよりは保存の方向ではあるだろう。
環状列石Aには、竪穴同様の平安期で環状に溝状遺構が構築されており、平安の俘囚(エミシ)にも何らか意味を持つ場所であった事は間違いがない。


さて…
ここから北側に川を下れば「比内」の地。
平安期の「元慶の乱」では、秋田城に抵抗した人々。
だが、近辺には、十和田爆発の泥流に飲み込まれた「胡桃館遺跡」の寺院跡、大館の郡衙と思われる遺跡、能代の「能代営」と言う古書記述、更には前述の様な文字痕跡…この地が全く朝廷と切り離された地帯であろうハズもない。
これは物証を伴った事実。
古く見積もれば、この空堀は、そんな俘囚の人々が構築し、俘囚(エミシ)は文字を駆使(識字率は別)出来た事になる。
防御性環壕集落を築き、製鉄や須恵器作りをし、水田を広げつつ、馬を育てた俘囚とは、そんな人々。
それが擦文(平安)期に北海道と行き来していた人々の実態。
製鉄,須恵器窯を除けば、大きな差異は無い。全く独立したものと考える事こそ馬鹿げた話だと気付くだろう。
縄文の「円筒土器文化圏」、続縄文の土器痕跡、そしてこれら。
行き来の延長での、少数の移住や婚姻らは、想定されて然るべし。
なら、擦文期の土塁,空堀を構築した人々は?…こんな俘囚達と密に関係を持ち技術伝播された人々、又は北海道へ移住した俘囚そのものと考えるのは至極簡単だ。


さて、そこから時代を下り、後世へ考察を飛ばしてみよう。
上記の通り、俘囚縁の擦文文化人は土塁,空堀の構築技術を持っていた事は推定可能。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902
さて、アイノ文化を持つ人々は?
チセの建築再現過程で、萱野茂氏が掘立建築物(チセ)の柱穴はホタテ貝の貝殻で開けたとの伝承を試験的に実証している。
これが土塁,空堀の構築技術からかけ離れているのは言うまでもない。
更には、鉄先端部を取り付けた鍬やモッコを使えば、柱穴は貝殻を使うより遥かに楽に作業可能だ。
二風谷ユオイチャシの規模は、発掘調査報告書によれば、長さ約30m×上部3~4m×下部0.1~0.6m×深さ1.5m。シャクシャインの館と言われる「シベチャリチャシ」はもっと大きいと記憶している。
空堀内部の掘立建物を含め、これを貝殻で作る話も、わざわざ貝殻と鍬らを使い分ける理由も合理性がない。
端から、チャシ構築した人々と、萱野氏が実証したチセを建築した人々とは別文化である事も検討の視点として持つ必要がある…と言う訳だ。
が、やっていない…


SNS上の検討は非常にためになる。
持っている情報を即座に「足し算」し、離れた地域の事もフットワーク良く確認可能。更に地域の専門家へ質問も可能。
その上で合理性の有無を即座に「引き算」出来る。
共通した疑問があれば、縄張りなく確認していく事が可能なのだ。
元々、我々グループが目指した検討手法はこれ。
自分達の知識の薄さを補う為の手法。


如何だろうか?
擦文…
俘囚との関連性より構築技術を持ち得る
アイノ…
実証から、逆に構築技術を持ち得ない
むしろ疑問なのは、擦文文化人が何処に消えたのか?そちらになるのでは?
それを追わないから、ミッシングリンクになる様に見える訳だ。

ユーカラには書いてあるではないか。
創世神の子も、コロボックルも去っていってしまったと。
全てが嘘に非ず、全てが本当に非ず、ただ、火の無いところに煙はたたず。
つまり、ヒントにはなる訳だ。
そもそも、江戸期の渡島半島付近の人口と蝦夷地の人口が、何故イーブンなのか?
考えた方は居るのだろうか?


参考文献:
「伊勢堂垈遺跡 -県道木戸石鷹巣線建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅱ-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成11年9月

「史跡伊勢堂垈遺跡発掘調査報告書」 北秋田市教育委員会 平成23年3月28日

平取町 二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日