https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/23/121204
ある意味本命登場。
何しろ「生きていた証」、竈や井戸の文化痕跡を追う様になった「原点」はこの洲崎遺跡から。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/02/192531
直接関連項は下記。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/11/201831
実は、中世にどんな生活をしていたか?は割と立証されていない。
古書や絵図らは残るものの、それは畿内中心。何せ生活痕が残る町屋の遺跡が全国的に少ないので、その地方がどんな暮らしかベールに包まれる。
そんな中、この洲崎遺跡はそれらを雄弁に語ってくれる。
これが現在の洲崎遺跡。
何もない田んぼの下に眠る。
基本層序は…
0層:現代の盛土
Ⅰ層:表土,水田耕作土
Ⅱ層:明黄褐色砂層
Ⅲ層:a~dの四層に分かれる泥炭質層(文化層)
Ⅳ層:黒色砂層
Ⅴ層:地山砂層らが場所により分かれる
ダイジェスト的に特徴を羅列していく。
①立地
八郎潟東岸に当たり、東側の丘陵尾根を中心に城館8、周囲の寺社らには1300年代中心の板碑が残る。
板碑は隣町である五城目,飯田川町ら含め百基を優に越える。
中谷地遺跡ら秋田城に関連する「秋田郡衙」遺跡も近く、平安期頃には既に人が住んでいた形跡が残る。
この一帯は吾妻鏡ら古文献上登場する「湯河湊」に比定されることがある。
②遺構
井戸跡:
312基
掘立建物跡:
115棟
竪穴状遺構:
18基 (これは3mを越える物)
土坑:
297基 (概ね2m未満の物)
堀,溝跡:
234条
その他:
旧水田,畠跡,道路跡
特にこの井戸跡は木枠や曲げ細工(水貯)らにより4系統に分類される。
人為的に埋められた物は木枠を引き抜いた跡や物を入れられた形跡があり、「廃絶儀礼」痕と推定される。
又、堀や溝は水路と推定され、それらによる区画の跡が見える。
発掘後の検討で、現在の溜池や農聖「石川理紀之助」翁が残した絵図、旧井川、堀跡、船着き場跡らから、三期に渡り運用された長さ200m超×200mにも及ぶ大規模な集落跡である事がほぼ特定される。
竪穴状遺構も、瓢箪型で内部に木らで仕切りを付けた物もあり、居住や小屋,作業スペースらで使用されたのは言うまでもない。
但し、付記すると「竈」跡は一切ない。
③遺物
木製品:
木簡、食器(漆器含)、炊事具、装身具、履物、建具,自在鉤ら、織具、笛,羽子板,的ら遊具、サバマス,斎串,形代ら呪術具、農,工,漁具らや丸木船片(井戸木枠に転用)
金属器:
鉄鏃、刀子、釘、かすがい、鉄滓ら鉄器
切羽、火箸、(後の時代のキセル)ら銅器
六器(椀のみ)ら仏具
古銭
土,石製品:
土錘ら漁具、砥石,硯ら
陶磁器:
白磁,青磁,染付,朝鮮系ら貿易陶磁器
珠洲,瀬戸,美濃,越前ら国産陶磁器
これらの編年経過より、概ねこの遺跡は、
13世紀後半に運用開始…16世紀後半に廃絶と推定される。
はっきり断定は出来ないが、板碑や寺社の伝承も含め古書にある「湯河湊」の姿を想像させるに相応しい発掘成果。
それも、思い切り生活痕満載。
唯一目立った特徴は井戸跡の多様性やそこに沈められていた「人魚供養札と人魚絵」だろうか?
人魚と僧侶が描かれ、人魚の卦は「凶」。
添えられた文は「あらかわいそう。(だが)殺してしまえ。そわ可」と訳される。
何より中世の生活を教えてくれる、八郎潟漁業も含めた、町屋&湊町&門前町の要素も含めた遺跡になるだろう。
さて、これだけでは「北海道~東北の関連史」とは言えない?
いやいや、片鱗をお見せしよう。
引用する。
「椀は黒色漆が塗られているものがほとんどである。漆塗りの範囲は全面にわたるものと、底部を除いて塗られているものとの2種類に分けられる。また内部に赤色漆が塗られているもの(270-7・9、277-3・4)、内外面に赤色漆が塗られているもの(280-4)がある。276-1・3・4、277-1・2は底部に「+」「-」の線刻が、280-4は体外面に線刻がそれぞれ認められる。~中略~280-3は底面に「二」の赤漆文字が見られ、もう一点の漆塗り椀と共にSK223土坑から出土した。この土坑は形態と埋土から墓と考えられ、椀は副葬であった可能性がある。」
「洲崎遺跡-県営ほ場整備事業(浜井川地区)に係る埋蔵文化財発掘調査報告書-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成12年3月 より引用…
如何か?
東北なら「線刻」、北海道なら「シロシ」と表現されていると言う訳だ。
椀と言う「物」から推定すれば、これら刻線は、部族特定より個人特定の印と考えるのが妥当かも知れない。
製作時ではなく使用時に刻印された食器なら、東北での関係を考慮すれば使用者特定の物とも考えられる。
ここから考えられるのは、
①低部刻印は北海道固有ではない…
②仮に北海道系住民が使用者であれば、既に婚姻らで移住する程密接な関係下にあった事を示し、アイノ文化の人々はこの時点で閉鎖的社会では無かった事を示す…
となるだろうか。
では、この使用者はアイノ文化を持つ者か?
それは無い。
何故なら上記通り、洲崎遺跡の住民は文字を知っている。
更に、ここは湊「安東」氏の勢力圏。
仮に北海道系住民の出身だとしても一部であり、②の通り、更に既に同化する程行き来があった証明に他ならなず、江戸初期には既に廃絶されている時代背景なのだ。
まぁ、夷船は秋田湊には来ていた訳で②であっても問題はなんもなし。
以上である。
この発掘調査報告書はボリュームがある。
更に中世北海道の姿とリンクする場面を見付ける事はあるだろう。
十三湊遺跡と共に、最強クラスの「教科書」となる。
そして、本題はここから。
洲崎遺跡では、竈跡は検出されてはいない。
それが竪穴状遺構であっても無いのだ。
自在鉤が出土しており、床面より高い位置に囲炉裏を構築していたのは、想像に優しい。
では…
「SKI686は小型土坑・溝が複数重複するかのような平面形状を示し、底面も凸凹することがら他の竪穴状遺構とは性格を異にする可能性が高い。遺構内から小型七厘であるキャフロの一部(272-10)が出土している。」
「洲崎遺跡-県営ほ場整備事業(浜井川地区)に係る埋蔵文化財発掘調査報告書-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成12年3月 より引用…
一応、近世陶磁器と分類されているが、このキャフロは遺構「内」からの出土と記載される。
他に同一遺構内からは北宋銅銭が二枚。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/08/081429
浦田七厘を製作していた浦田村は、最低戦国迄は遡る。
浦田で盛んに作られた角形七厘より、もろに貝風呂形状なので全合致はしないが、可能性には既に近付いてきている。
珪藻土そのものは、北秋田市~能代市にかけ取る事が出来る。
記録には行き着いていないが、能代…つまり檜山七厘の可能性も無い訳ではない。
ここに来て、じわじわ近づいてきた可能性はある。
今後、貝焼鍋の起源や埋蔵文化財センターへの問い合わせをして、中世「移動式竈」の存在があるのか?確認していく。
貝焼&キャフロが中世迄遡れるならば、状況はガラリと変わる。
何しろ、現状キャフロは江戸期の物と解釈されているであろうから。
こうなれば根性あるのみ。
継続は力なり。
参考文献: