時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
前項に続き「ユカンボシC15遺跡」発掘調査報告について報告したい。
但し、このユカンボシC15遺跡は第6次迄行っているので、あくまでもこの段階までだと承知戴きたい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/09/054921
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/121516
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/04/192707
予め、関連項はこれら。
近世,近代アイノ文化を象徴するアイテム等は、それより古い時代から東北に伝承された品々に似たようなものが幾らでもある…こう言ってきた。
この延長線上に見て欲しいと思う。

さて、この遺跡、地層の層序が少々複雑。
基本層序は、
①表土
②Ta-a火山灰層(1700年代降灰)
③0黒層(Ta-aとTa-bの間にある褐色土層)
※(Ta-bは検出せず)
④ⅠB1層(アイノ文化期遺物)
⑤ⅠB2層
⑥ⅠBⅢ層(途中の一部に「苫小牧火山灰層(900年代降灰)」あり)
⑦ⅠB4層
⑧ⅠB5層
…と並び、西,北側の台地部から東側の低湿地部に向かってそれぞれの層の堆積が厚くなりはっきり別れる傾向があると言う。
つまり、水の力で流されたような様子が見え、これは隣接するユカンボシC2遺跡等でも同様の層序傾向らしい。
で、④~⑥アイノ文化期、⑥~⑦擦文文化期、⑦~⑧続縄文文化期…の遺物が出土し、一部遺物は被る傾向がある。
水に流され、低湿地側で溜まり混ざったか?
これが前提。

さて、引用してみよう。
特にⅠB4層について象徴的なので抜粋する。

「Ta-cが降下した後、沼沢~湿地域となり、ⅠB5層が形成された。ⅠB4層の時期ではさらに泥炭の形成が顕著になって行き厚い層が形成された。」
「層厚10~35cmで、大きな木根や自然木が多く、木製品も出土する。続縄文~擦文文化初頭から前半にかけての層である。」
「ⅠB4層で扱う木製品の点数は、杭列10の3点を除き、956点である。~中略~層の状況、出土品とその分布状況や数製品の樹種からすると、当遺跡のⅠB4層の時期、続縄文時代~擦文文化期初頭においては、低湿部利用頻度は急激に高まり、低湿地は生活と密接なつながりを持たはじめたものと考えらる。また、スギ・アスナロの柾目板等や漆椀・竹材・ブナ属枝材など、製品や樹種で、地場物ではなかったであろうものも確認できた。交易関係を検討する上での重要な資料となる。」

「箆・箆状製品・大型箆(27~34) : 27・28・31・33 はアスナロ材の柾目板加工品で、27・28は端部加工から箆とする。28は56と同じく棒酒箆状製品とすべきかもしれない。31は端部欠損で、33は端部の削りのないことから箆状製品とした。29・30・34はスギ材の柾目板加工品である。29・30は端部を刃状に削っているが、尖っていることや幅広であることから、箆状製品とした。34は羽子板状の大型箆。箆先端を欠くが、中央部に緩い凹みがある。32はモミ属材の柾目板加工品で端部は薄く削っているが、全体的に厚みがあるので箆状製品とした。32以外は交易で持ち込まれたアスナロ柾目板材の製品部材の再加工の可能性がある。」

「イクパスイ(52~55等) : 未掲載7530も含めてすべてアスナロの板目材の加工品である。削りかけやイトクパ・紋様などは確認できないが、とくに52に顕著な端部の舌状削りや、断面形から、棒酒箆(イクパスイ)かその原形品と考えた。56も含めて、交易で持ち込まれたアスナロ柾目板材の製品部材の再加工の可能性がある。イクパスイがすべて持ち込まれた材から作られているとすれば、この事実は、祭祀儀礼のありかたや祭祀具の発生出現の問題にに一石を投じるものである。」

千歳市 ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張) 埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日 より引用…


以上の通り。
木製品が大量に出土したので、樹種特定したのだろう。
この時代の木製品は、泥炭や水で酸素を遮断しないと残りはしない貴重品。
が、驚愕の結果が得られてしまっている。
これが、「この事実は、祭祀儀礼のありかたや祭祀具の発生出現の問題にに一石を投じるものである。」…とした理由。
前項同様、興奮しているのか、この検討者は誤植が多くなる傾向が…いや、バカにしてはいけない。それだけ驚愕している証左と筆者は捉えている。
何故なら、「アイノ文化の象徴」たるイクパスィが本州由来の可能性が出て来てしまえは、超古代から「全く独自の精霊信仰を守ってきた」設定か揺らめきだす。
これを受け止められますか?
これは「アイノ文化が縄文や擦文と繋がる」と言う設定を覆しかねない。

と言うか…
我々的には、驚かない。
これは「由利本荘市歴史民俗資料館」で展示している「祭祀具」。
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我々は前からイクパスィは、「陰陽師の斎串」そっくりだと言っている。
この遺跡のイクパスィは図や写真を見る限り、紋様無しのこれらはそっくりそのまま。
更に仮に紋様有りとしても、「陰陽師の斎串」には「墨書」で呪文が施されていた事は「秋田城跡歴史民俗資料館」で既に学んでいる。
秋田城の発掘で出土しているのだ。
概ねのサイズもそっくりである。
つまり、イクパスィの原型が「陰陽師の斎串」でも、時代背景を考慮しても全く矛盾しない。
ましてやこの遺跡は低湿地部、陰陽師の祭祀場も沼地だ。
斎串らで結界を張り、呪文を唱え、穢れある物を「流す」必要があるのだ。
もっとも、こんな「恐ろしい」事を指摘出来るのも、発想を学閥に縛られない我々だからこそではあろうが。


さて、アスナロ
こう言えば、多少解りにくい?
皆さんは大産地よくご存知。
俗に「ヒバ」と言われる樹種の事だ。
更に、少し南に下れば「スギ」の大産地がある。
津軽ヒバ、秋田スギとはっきり書けば良いか。
ヒバもスギもこの時代は北海道に「自生無し」。
北海道の博物館,資料館で、古い祭祀具を見かけたら、是非とも聞いて戴きたい。
「この木なんの木?」…と。


ところで、我々の指摘にも、「時系列上の矛盾」か無い訳でもない。
陰陽師の斎串」は秋田では、秋田城が成立してからの出土になる。
9~10世紀にそれが秋田城から北上し、能代郡衙津軽一帯へ拡散する傾向。
が、このユカンボシC15遺跡では、それより古い時代を想定しているので逆転が起こる。
古代城柵に陰陽師は1人づつ配置されていた特殊職で、わざわざ城柵から出たハズもない。
先述通り、ユカンボシC15遺跡の層序は、後の時代と混ざる傾向にあるので、ズレは出る。
しかし、仮にそのままの時代背景だとすれば、朝廷は、再北の国衙「秋田城」築城前に既に特殊職たる陰陽師を含めた一隊を北海道に派遣していた可能性が出てくる。
これも「阿倍比羅夫の後方羊蹄柵」と考えれば辻褄は合うのだが、面での制圧前に既に陰陽師迄派遣となると、かなり重要かつ大掛かりな任務がないと難しくなる。
「夷の事は夷で」政策ではなく、直接朝廷役人が出て行った可能性が出てくるからだ。
その任務とは?
そうなれば、たった一つだけ思い当たる事がある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/192546
「金」の探索、これならどうだろう?
百済王敬福らの砂金発見より先に、陸奥国司や国介らが探索部隊を派遣したなら…無いとは言えなくなってくる。


まぁ、推測はここまで。
江別,恵庭の古墳は、秋田城築城より早く、出羽国より陸奥国側から先に北海道行きされていた事が想定されている事を付記しておく。


参考文献:
千歳市 ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張) 埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日