日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/13/082543
ここに繋げてみよう。
実は少し前にこんなSNS情報を戴いた。

秋田県由利郡象潟町の蚶満寺にシャクシャインに打ち殺された人の記録がある。」
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筆者は全く知らなかったので、これは確認してみようと宿題としていた。
と、言う訳で久々にフィールドワーク報告である。
では、少し「蚶満寺」とはなんぞや?からレポートしてみよう。

正式には「皇宮山蚶満珠禅寺」と言う。
853年、慈覚大師開基の伝承を持ち、延喜式にもその名が登場すると言うので平安からの古刹である。
現在のにかほ市象潟は当然ながら陸地なのだが、元々九十九島浮かぶ風光明媚な内湾だった。
だが、1804年象潟地震により隆起し今の様な形になった経緯を持ち、天然記念物指定される。
古代からその名は都に轟き、「西行法師」が詩に詠んだり、松島とその高名を二分していた様だ。
秋田県民的には「松尾芭蕉」が目指した最北の地として歌碑が残される場所として知っている御寺である。

きさかたの雨や
西施かねむの花

まだ、松尾芭蕉が来秋した時は、隆起前の美しい入江が広がっていた訳だ。
また、ありがちではあるが「北条時宗」の来訪伝説を持ち、縁の樹齢700年のつつじらがあったり、七不思議と言われる「夜泣き椿」「木登り地蔵」等、庭園だけでなく、九十九島も合わせ散策出来る様になっており、歴史、寺社、和歌俳句、地形等、それぞれのファンがゆっくり散策しながら学べる様になっている。
九十九島には、舟繋ぎ石や石燈籠が何気に残っており、その昔を偲ばせる。
象潟は年に二度、田植え前に田んぼに水を張った時、稲刈り前の稲穂が黄金色に実った時、浅瀬と黄金の海となり、二百年前に姿を戻す…
その姿も隆起直後に統治した本荘藩が、島を掘削し全て田んぼにしようとしたところを、当時の蚶満寺の覚林和尚が往古からの寺領を守る事、景観を守る為に宮家の権威までも動員し身体を張って阻止、今の景観が守られた歴史があり、地元有志で顕彰されている。


さて、本題にいってみよう。
二題あるので、まずは「島原の乱」と「親鸞上人」そして蚶満寺の繋がりから。

蚶満寺には、「親鸞上人御座石」が置かれている。
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勿論、親鸞上人が秋田に布教には来ていないので、御座石と言うのも不思議だったので和尚様から教えて戴いた。
元々、この御座石は西国布教の折に、
親鸞上人が腰掛けた石だそうで、西方寺と言う御寺の寺宝として置かれていたそうだ。
江戸期、九州は島原の乱が起こり、周囲が不穏になる。
和尚様によると、寺社はこんな時は軍の陣屋として使われるのが常。
当然、攻める側にすれば要害となり攻撃対象、逃げる側にすれば敵に利用させない様に廃絶対象、どちらにしても焼かれる運命を持つ様なもの。
当然ながら、西方寺和尚にすれば、寺宝である御座石が失われるのを恐れる。
そこで、北海道行きの船に載せたそうで。
象潟沖で折しも時化に会い、船は象潟湊へ回避。
沈没で宝を沈めるよりはと、蚶満寺に託されたそうで、安置していると寺伝されてるとの事。
実は、象潟周辺、対馬海流がモロにぶつかるので、損傷しても何とかたどり着ける可能性がある良港だった模様。
ただ、水深が5m程度と浅い為に、西廻り航路が開かれ船が大型化、水深の浅い象潟湊に入れなくなって勢いを失う事に。
それもそうなのだが、島原周辺から幾つかの湊を経由しつつ、既に九州~北海道への航路も開設されていた事になる。
まぁ、十三湊安東氏の「関東御用津軽船」は、鎌倉~室町には「尾道」迄就航していた古文が残されているので、当然と言えば当然なのだが、現代我々が考える以上に日本海ルートでの交易は広く一般に使われていた証左となろう。


さて、本日の主題。
「寛文九年蝦夷乱」、所謂「シャクシャインの乱」と蚶満寺、そして秋田の人々との繋がり…前述の「シャクシャインの乱」で襲われ亡くなった方が居る話である。
これも和尚様に確認出来た。
勿論、個人情報含むので見せてくれとは言えませんでしたが、元々調査依頼に応じ調べたので和尚様もよく知っていた。

端的に言えばズバリ「事実」だそうだ。
それも、一人二人とかではなく、過去帳には36名(だったかな?と和尚)が列挙され、その末尾に「狄國ニテ狄打殺」とあるとの事。
それも亡くなった方々は、一時一ヶ所だった訳ではなく、乱の時期に一定期間、一定人数であった模様。
それも、それぞれ個人の船で向かっていたらしく、正に巻き込まれたって感じだったと推測されている。

さてでは、当時どの様な状況だったのか?

和尚様によるとその頃、象潟は海運ラッシュだったそうで、その後も「一旗あげるわ」感覚で漁師や商人が北海道に向かって
いたそうだ。
なので、未だに家の改築で倉を壊すとアットゥシらが出てくる様な事例はあるとの事。
和尚様曰く、一般に考えられているより遥かに往来は多かったそうで、この様な事が痕跡として残っている様だ。
商人の往来が少なくなるのは、北前船就航以降。
勿論、この人々は武家ではないので、語学始めとした「学問」までの習得は無いだろう。それでも一旗上げられたと言う事=言葉が通じなければ成立しない。
酒飲みながらお互い服の交換する様なコミュニケーションが可能だった訳で。
実態はそんなもんなんだった事になる。
江戸中期にはニシン漁の出稼ぎで、肥料の魚脂を手に入れていたのは、菅江真澄も記録している。
少なくとも北海道と秋田(象潟)に於いては、そんな風に行き来出来る状況且つコミュニケーションをとった上で、一攫千金を成し得た人々がかなり居た事になる…そんな開かれた場所だった可能性がある。
まぁアンジェリス&カルバリオ神父が海路で北海道入りしたのには、ちゃんと理由がある訳で。
更に…
九州から寺宝を託せる程、日本海海運は開けていたと言う事になる。
現在の想像より遥かに、海の道は開かれた世界だった事になるし、北海道は閉鎖された世界でもなんでもなく、普通に行けたって事で。
これこそ、北海道~東北の関連史と言えるだろう。
如何だろうか?
なので、我々は言っている。
「北海道と東北は古代から繋がっている。それが途切れた事はないと」

改めて言えば、一つ疑問になる。
江戸中期に場所制らが整備される前、それもシャクシャインの乱は主に東蝦夷地側の話である。
で、この状況なのだ。
であれば…
江戸中期以降に出現する、我々東北人と言葉が通じない人々って…
何者なのだ?。

まぁゆっくり学んで行こうではないか。