ヤバい、都じゃないかも…「キ型火葬施設」がある長岡京「西陣町遺跡」はこんなとこなのだが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

さて、前項迄で「中世墓資料集成」を中心に特異性がある「十字型火葬墓(施設)」を探してきた。

で、今のところの実績は…

北海道…

上ノ国町「夷王山墳墓群」
秋田県

大館市「山王岱遺跡」(14~15世紀)

琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)

琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)

北秋田市鷹巣「からむし岱Ⅰ遺跡」(9~10世紀)

千葉県…

市原市「新地遺跡」(15末〜17世紀)

の六ヶ所。

それに類似する「キ型火葬墓(施設)」は、

京都府

長岡京右京区 西陣町遺跡」(11世紀後〜鎌倉期)

ここまでは抽出出来た。

前項で秋田の事例を確認出来たので、今回は京都の「キ型火葬墓(施設)」がそのルーツと成り得るか?…こんな視点で確認していこうと思う。

この「キ型火葬墓(施設)」は「長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」 に記載され、これも「中世墓資料集成 近畿編(1)」で確認。

この火葬施設が検出したのは、右京第130次調査の西陣町遺跡で、宅地造成工事に伴うもの。

長岡天神駅の西方約500m、竹林を含む民家敷地内との事。

では見てみよう。

基本層序は…

Ⅰ…暗灰褐色土(森土)

Ⅱ…淡黄灰色土(竹林客土)

Ⅲ…淡赤褐色土(西側からの流入土)

Ⅳ…黄褐色土(礫混じり)

Ⅴ…黄白色砂礫

Ⅵ…暗赤褐色粘質土(西側からの流入)

Ⅶ…黄褐色砂礫土(同上)

Ⅷ…赤褐色土(同上)

Ⅸ…淡黄褐色土

Ⅹ…暗褐色土

で、竹林以前の土層はⅢ層から下、中世遺構はⅣ層、Ⅵ層に古墳〜中世遺物の包含層がある模様で、これらは西側傾斜上側からの流入。Ⅹ層が平安期の遺構面。

キ型火葬施設は、墳墓SX13001とされる。

「上層遺構面のトレンチ中央やや東よりで検出された長軸をほぼ南北に向ける、平面長方形を呈する焼土壤である。検出面で南北1.85m、東西0.55m、底部で南北1.7m、東西0.45m、深さは0.25mを測り、各辺はほぼ直線的であるが、南辺のみやや丸みを帯びる。又東西の長辺部には、南北幅約0.3m、深さ約0.1m程の半円形の窪みがそれぞれ二ヶ所づつ、計四ヶ所に撃たれている。土壌の壁は長辺部の窪みも含めすべて幅0.1m程で赤色化しており、非常に硬くなっていた。ただし底部に関してはまったく赤色化していない。埋土は2層で、下層の黒色土内からは大量の炭に混じって、人骨片、鉄釘、土師器、瓦器の土器片が出土し、上面には完形の土師器皿が3枚置かれていた。以上の状況からSX13001は火葬を行った施設であることが判る。黒色土上面の土師器にはまったく火を受けた痕跡がないところから、火葬終了後に置かれたものであろう。黒色土内の人骨片は非常に細かく、部位の判明するものはなかったが、北側部分に薄い骨片が、中央から南側部にかけてはやや大きな骨片がみられるところから、北を頭にして火葬されたものと思われる。鉄釘は30数本検出されたが欠損するものが多く、錆も多いため 正確な本数や木棺における使用個所は不明である。又、長辺部に見られる四ヶ所の窪みは、この部分に土壙の長軸に直交する形で木材のようなものをわたし、棺をその上に置いて火葬を行った痕跡と考えられる。おそらく棺を上にあげることにより、土壌自身に通風の機能をもたせて燃焼効率を高めたのであろう。ただ、火葬終了後そのまま当所を墓としたものか、あるいは収骨して他所に埋葬したものかは即断できない。しかしながら、検出面において当土壙付近に黄白色砂礫が薄く敷かれてはいたものの、墓標等の明確な痕跡が見あたらず、又土壙内に遺残する骨片が非常に少量かつ細かいことなどから、後者、すなわち「焼場」としての可能性の方が高いと思われる。」

「土壤内から、土師器皿5個体、瓦器埦片1個体分、鉄釘、人骨片が出土している。このうち 49・50・53の土師器皿3枚は黒色土上面に置かれた状態で、他は黒色上内から破片となってとともに検出された。

土師器皿は、外面に指オサエの凹凸を残す平底気味の底部に、短く外反する口縁部をもち、口縁部外面は一段のヨコナデを施す。口縁端部に外傾する面を有するもの(49-51)と肥厚させておさめるもの (52) に分けられる。53は器壁がやや薄く、平底気味の底部に内彎気味に立ち上がる口縁部をもつものである。平均口径・器高はそれぞれ12.0cm・2.5cmを計り、胎土は精良、色調は52が灰白色系で他はすべて淡褐色系のものである。瓦器塊(54)は、口縁部と底部高台付近の破片であり、摩滅が著しく詳細な観察は困難だが、断面三角形の高台を有し、内彎気味に外上方に立ち上がる口縁部をもつものと考えられる。口縁端部内側には沈線が廻り、 内面にはわずかに横方向の暗文が認められる。土師器皿は、形態的特徴から、平安京左京内膳町遺跡SD345・SK118・SK334出土の土師器皿とほぼ同時期と考えられ、12世紀末~13 世紀初頃の年代が比定できる。

鉄釘は、破片が大半であり完形となるものはない。破片数としては、40数点あるものの、図示し得たものは14個体であり、そのうち釘頭部が確認できたものは8点のみであった。釘の全長は完形品がないため不明であるが、55から9cm前後のものと推察される。断面はいずれも四 形状はまっすぐに伸びるものが大半であるが、直角に曲折するもの (67・68)もあり、67は先端部が曲折するものである。頭部は、方形で平坦に潰れているものが多く、打ち曲げられたもの (61) もある。鉄釘の表面には、サビの浸透により断片的に本質の残存するものが多くみられるが、これから棺材の板目方向や板材の厚さ、組み合わせ状態を復原するには、出土状況がバラバラであったことも合わせ、やや不充分である。少ない木質の木目遺存状態の観察により、出土した鉄釘は4つに分類できる。A類(61・66)は、頭部付近に横方向の木目、それ以下の部分は縦方向の木目が残存するもの。B類 (63)は頭部が縦方向、以下が横方向の木目が残存するもの。C類(59) は横方向のみ、D類(58・65) は縦方向のみの木目が残存するものである。他は遺存状態が悪く、分類は不可能であった。」

「今回検出された焼土城SX13001は、近年類例が増加しつつある中世火葬施設の一例であるが、本例は長辺部2ヶ所に窪みを有しているところに特徴がある。これは検出遺構の項においても述べた如く、この部 この部分に木材などを渡して棺を置き、下の土壌に通風および燃料投入の空 間としての機能をもたせるための施設であったと考えられる。これにより、一部ではあるが、当時の火葬の具体的方法を明らかにし得たといえるだろう。以下、この点を含めてもう少し検討を行ってみたい。

当土壙に渡された木材は、地面と棺との間にある程度の隙間を作り出すことと、火葬中に一 定時間棺を支えていなければならないことから、かなり太いものが必要であったと考えられる。長辺部に見られる窪みの上部幅は、最大で40cm、最小で30cmを測り、これから概ね直径30cm前後の木材が置かれていたと推定される。この様に仮定すれば、地面と棺との間は約20cmとなり、先に推定した通風と燃料投入のためのものとして、ほぼ充分な空間といえるだろう。この様な火葬のための通風施設としては、奈良県榛原町谷畑遺跡・御所市葛城石光山古墳群10号地点の様に土壌の底部を溝状に一段掘り下げ、それを両端に延ばしている例や、天理市柚之内焼土壊の様に斜面を利用して過風孔と満を穿つものなどが見られる。

次に、上に載せられた棺であるが、形態は「餓鬼草子」に見られる様に、現在のものとほぼ変わらない長方形箱形のものであったと思われる。又、大きさは、「吉事略儀」によれば、多くの先例が「長六尺三寸。廣一尺八寸。 高一尺六寸」であったとしている。〜後略」

 

長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」  長岡京市埋蔵文化財センター  昭和60.3.31  より引用…

 

と、言う訳で、遺構状況、出土遺物、火葬のあり方を検討した部分を引用してみた。

被葬者は社会的地位が高いとは考えておらず中世の一般庶民で、同遺跡の東に隣接する開田集落との関係が示唆され、それが13世紀頃であると判明している事から、その墓域である事が推定され、これは土師器の編年と合わせても後ろの時期で一致しているので、矛盾は無い様だ。

よって13世紀、鎌倉期位と判断されている。

以上…

少々ヤバそうなムードである。

纏めてみよう。

①成立…

鎌倉期位となると、

琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)と、同等程度、むしろ、

琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)

北秋田市鷹巣「からむし岱Ⅰ遺跡」(9~10世紀)

は、この「キ型火葬施設」より古い形態となる。

都での中世火葬施設は…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

まだ検出数が少なく、明確ではないにせよ、さすがに200年程度のギャップがあるとなると、現状では秋田の「十字型火葬墓(施設)」より遅い成立で、ルーツとは成り得ない。

②構造差…

基本構造が少々違う様だ。

秋田の場合は、浅い円形らの土壙を掘り、通気孔として十字を掘り下げる。

しかも、途中で「火葬のみ→埋葬込み」と変遷までしている。

しかし、この事例だと「奈良の長方形土壙→I型火葬墓(施設)」の後に続く派生型が想定される。

しかも、棺は横渡しされた丸太の上に持ち上げられ設置と想定される。

どうやら共通なのは「直角方向に開けられた通気孔を持つ」事だけの模様。

 

と言う事は、現状では十字型火葬墓(施設)は、秋田で独自に行われる様になった墓制…こんな可能性が高い事になる。

と、なると、上ノ国「夷王山墳墓群」の十字型火葬墓(施設)は、秋田県北部からの伝播の可能性が上がる事になる。

当然、移住や宗教家や墓守役の移動も考慮せねばなるまい。

概略の歴史的背景は前項の通り。

この分布の「特異性」を鑑みれば、かなり堅い線ではないだろうか?

まぁこれも、北方や大陸にルーツを探す事も有りではあるが、その場合でも秋田→上ノ国…この線は崩れないと思われるが。

元々、夷王山墳墓群でもこの十字型火葬墓(施設)は、本州系の人々と推測されているので、別に問題にもならないだろう。

アイノ墓とされる「伸展葬+厚葬」の土層墓より数が多い→秋田系の人々の方が人口インパクトは高いとは言えそうである。

 

如何であろうか?

まぁ、15世紀には檜山に「安東政季」が入る。

大殿と関連が深い人々が多数移住したとしても問題は無かろう。

そして、蠣崎氏の安東家臣団内での身分が確定するのは16世紀になってから。

それより後になる。

こんな話が出てくるから、北海道史は面白い。

東北から見るからこそ見えるものもある。

十字型火葬墓(施設)のルーツ探しはまだ続く…

 

参考文献:

長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」  長岡京市埋蔵文化財センター  昭和60.3.31