この時点での公式見解22…蝦夷争乱に社会,経済的背景を加えてみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/08/054450
前項はこちらになる。
SNS上の話で、蝦夷争乱に商人が絡む話はある。
新北海道史においても、寛文九年蝦夷乱や寛政元年蝦夷乱の原因の一つは本州からの移住者増加や商人による酷使らと記載はある。
では実際どうなのか?
実は、新北海道史から商人の活動実態らを並べ変えるのは少々厄介ではある。
理由は、
①記録が少ないのか、あちこちに分散して書かれる
②年代が元号になっており、西暦換算が必要
近江商人が与えた影響ら項目はとっているが、それと出来事(事件)との整合が取り難い etc…

だが、前項の様に寛文九年蝦夷乱と寛政元年蝦夷乱(国後・目梨の争乱)とに120年程度のギャップがある事を考えると、地味に略年表を見ていくしかないだろう。
と、言う訳で、まずはそこから。

前回の蝦夷争乱の話に、「場所制」ら商人の活動に不随するものや天災、米相場に関わる「飢饉」の要因を加えてみた。
では…


・1611年
慶長三陸地震に伴う津波検出

・1619年
元和の飢饉

・1624年
厚岸場所開設

・1616
福島,知内町で砂金採掘開始

・1625年
この辺りより「近江商人」渡道開始

・1628年
大千軒岳開山

・1631年
島小牧開山、赤神銀鉛山開山

・1633年
沙流ケノマイ,シブチャリ開山

・1635年
様似(運別),国縫,夕張開山

・1640年
駒ヶ岳Ko-d降灰、8mの津波伴う
(様似の東金山落盤?)

・1642年
寛永の飢饉

・1648年
シブチャリのカモクタイン(シャクシャイン)とハエの鬼菱が抗争開始

・1653年
鬼菱がカモクタインを討つ

・1655年
鬼菱とシャクシャイン、福山で和睦

・1662年
鬼菱とシャクシャイン再び抗争開始

・1663年
有珠山us-b降灰

・1667年
樽前山Ta-b降灰

・1668年
鬼菱がシャクシャインに討たれ、争乱拡大

・1669年
寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)勃発
同年、シャクシャイン一党和睦、酒宴の席で処刑。
また、シャクシャインに与した庄太夫を火刑に処す

・1670年
ハウカセら西蝦夷の乙名らが不穏として余市にへ進軍、服従の誓詞を取る

・1671年
改めて東蝦夷地へ進軍、白老で服従の誓詞を取り、同年中で全乙名より誓詞を取る

・1672年
北前船(西廻航路)を川村瑞賢が開発

・1675年
延宝の飢饉1

・1678年
江差の檜山が開山

・1680年
延宝の飢饉2

・1682年
天和の飢饉

・1684年
宗谷場所開設

・1691~1695年
元禄の飢饉

・1694年
駒ヶ岳Ko-C2降灰

・1701年
霧多布場所開設

1717年
この頃、藩士知行地で場所請負制開始

※元文~天明元年(1739~1781)より、蝦夷地知行地及び知行主を示す書状が現れる

・1723年
福山で「問屋」成立

・1725年
奥島島神威岳噴火、乙部層降灰(説あり)。

・1730年
大阪堂島米会所設立

・1732年
享保の飢饉

・1737年
霧多布の蝦夷が騒ぎ、交易船を中止

・1739年
樽前山ta-a降灰
福山で「小宿」設立
(この頃から知行地知行主の書状が現れる)

・1740年
長崎俵物(干海鼠,干鮑等)取扱開始

・1741年
松前大島Os-a降灰

・1743年
(松前資広公の頃、藩主領も場所請負制へ)

・1747年
ロシア司祭、択捉島に教会建設

・1748年
函館で「問屋,小宿」設立

・1753年
宝歴の飢饉(1)

・1754年
後場所開設

・1757年
宝歴の飢饉(2)

・1758年
納沙布蝦夷が、2~3000人で宗谷蝦夷を襲撃。死者60余人,負傷者200余人。翌年松前派兵し和解させる

・1770年
十勝蝦夷沙流蝦夷で紛争勃発、松前派兵し和解させる

・1773年
ロシア、択捉島に学校建設。
同時に教化強化し、毛皮を租税させる。

・1775年
国後のツキノエが、酒に任せ交易船貨物を横領。翌年から十年間交易船を停止。

・1782年
天明の飢饉(1)

・1784年
幕府、蝦夷地開拓開始

・1786年
最上徳内、千島探検

1787年
天明の飢饉(2)

・1789年
寛政元年蝦夷乱(国後・目梨争乱)
松前派兵、国後のツキノエ,厚岸のイトコイの争乱賊らへの降伏勧告で鎮圧、8名処刑。結果、捕らえられた争乱賊が脱走暴れだし、松前により討ち取られ鎮圧。
イトコイら周囲の乙名が誓詞提出。

・1790年
樺太,斜里場所開設

・1795年
藩主道広公が家臣の防備増強,殖産提案に「兵も金も人も足りない」と返答。ロシア南下を幕府に隠し黙認の方針示す

1800年
伊能忠敬蝦夷地測量開始

1802年
函館奉行設置、東蝦夷地直轄


以上、幕府直轄迄である。
さて…
どう理解しようか?

先ずは「場所の設定」、これを外す訳にはいかない。
石高「〇」の松前藩は、領地での商業活動による租税が主な収入。
ざっと書けば、交易「場所」を設定し、周辺現地の漁場らから持ち込まれた物と物々交換し、入手した物を商人が引き取り売り捌く…その時、金額等に合わせ租税させて収入を得る訳だ。

蝦夷地における場所の設定年月は明らかではないが、一定区域の蝦夷を介抱するという名で商船を派遣し、その利益を知行にかえるという制度ならば、慶長中(註釈:1596~1615)、松前藩が藩として成立した直後とみることができる。しかし、のちの場所区画制度はこの時整ったものではなく、藩士が場所を見立てて開き、のちこれを知行として認められたものもあろうし、藩が開いて後、知行として分け与えたものもあったと思われる。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日 より引用…


商船派遣はしていたが、取引場所が設定されたのが何時なのか不明…あら?
であろうな…と言う感じである。
アンジェリス神父らは、松前迄交易船で来ていた姿を描いていた。
わざわざ途中に交易場所を設定していた様には記述していない。
勿論、場所制,場所請負制が成立した後も福山迄来た蝦夷衆に饗給したのは記録がある。
だが、それを何時から松前ではなく、各場所で物々交換する様になったのか?…これは一切論じられてない。
では、各場所の開設は?
略年表の記載詳細がこれ。

・厚岸…寛永年間(1624~1645)
・宗谷…不明だが、松前家老によれば貞享年間(1684~1688)とされる(商船行き来は1669から?)
・霧多布…元禄14(1701)
・国後…宝歴4(1754)
樺太…正式には寛政2(1754)、宝歴元(1751)に商船派遣記録あり
・斜里…正式には寛政2(1780)、商船は寛文年間?

基本的には、手前の場所運用中に、遠距離の場所を分離して拡大している傾向と新北海道史にはある。
寛政年間(1789~1801)位で、西蝦夷地43箇所、東蝦夷地45箇所,計88箇所になる。

お気付きだろうか?
大千軒岳金山の開山が寛永4(1628)、沙流,シブチャリが寛永10(1633)、様似,国縫,夕張が寛永12(1637)…
金山開発された時期と厚岸場所開設と時期が被り、砂金場も漁場らも一緒に開発を行われていったのではないのか?と言う事。
その他の遠距離の場所開設はほぼ、寛文九年蝦夷乱の後。
時系列で並べてみて、これでどうやって場所運用の不味さが寛文九年蝦夷乱の引き金になり得るのだ?
タイムリープしなければムリ。
ましてや、シャクシャインをバックアップした面子は、加賀庄太夫ら。
軋轢どころか、それぞれ仲間になった者が居る為に、全く辻褄が合わない。
つまり、寛文九年蝦夷乱と場所運用についてを又前項より、寛文九年蝦夷乱と寛政元年蝦夷乱をそれぞれ同一次元で扱うのはムリなのではないか?そう考えられると言う事だ。

霧多布,国後開設時期(1704,1754)。
寛政元年蝦夷乱(1789)であれば、時系列的には、場所らの軋轢とも理解可能だが。
が、1737に霧多布蝦夷争乱や1758に納沙布蝦夷の宗谷襲撃ら、事件を起こしているのも事実。
特に1775のツキノエ横領事件では交易船停止、寛政元年蝦夷乱後の対応は介抱と言う名で交易船を回しているのだ。
軋轢と言うより、むしろ交易したいのは蝦夷衆側なのではないのか?とも考えられる。
ならば、その全てを場所開設らの影響と見るのは如何なものか?
と、蝦夷衆の交易船は何処へ行ったのだ?

さて、次。
西暦換算で並べてみれば、本州特に、近江商人の資本進出は寛永末(1640前後)頃かと記載される。
勿論、ゴールドラッシュ真っ最中。
川村瑞賢が西廻航路設定が1672で、取引拡大に向かうのは目に見えた話。
場所請負が開始されるのは、これまた定かではないが、松前矩広公(1665~1720在職)?で、1717の頃に藩士として知行取引分として松前資広(1743~1765)の頃には、藩主直領もこれに切り替わったと予測している。
長崎俵物取扱を開始するのも1740。
この長崎俵物が干し海鼠や干し鮑で、長崎で清との交易に使われる物。
これも製法のマズさで当初価値が低かったのを、輸出用に加工方法を持ち込んだのも商人。
更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/04/192603
実際、何故か「切士丹宗門改」を強化しつつ、じわりじわり知行地拡大していく印象は否めない。
これらからも、寛文九年蝦夷乱から一気に力で捩じ伏せる様なやり方は出来てはいない。
むしろ、場所請負制で商人の手に委ねられた印象。
この辺も諸説ありと言わざるおえないか。
つまり、「海産物を蝦夷地から集め、それを場所請負制で商人が捌く」と言う、巷でよう言われている松前藩の運営スタイルが確立されるのは、江戸中期まで下らなければならない事になる。
もう、ロシアは目と鼻の先。


さて、次。

知行主が場所へ送る交易船は、「毎歳一場所夏船一隻」に定められていた(藩主が直営場所へ送る船は制限無し)。
産物増加で積み込み不能となった場所では、新産物対応として知行主が藩主へ出願、運上金を納めて秋に船を出したり船の数を増やしたり…
元々自由にやりくり出来た訳ではないようだ。
知行主自らがこれらをやるには、知行主は資本を商人から借金し物々交換用の品物を準備し、交換した現物ごと商人に渡し必要があったので、取引拡大や手続きの煩雑さが増えて手に追えなくなり、「場所請負制」にして運上金のみを得る形に変わっていくと新北海道史にはある。
商人にすれば、3~5年の許可任期中に儲けを出す必要がある。
資本は全て自ら出さねばならない。
よって、差し網やらの漁法を持ち込んだのも商人、大枚叩いて網元を雇い、漁具を揃え、現地で漁師をかき集め、許可を取り、漁場を拡大していったのも商人。
この段階で蝦夷衆が漁師として雇われたり、乙名が網元として漁法を習う事は記載あり、漁具は貸出か買い取りで、買い取りにした場合に、当然支払いは漁獲高から帳消しにするしかない訳で。
その形式らは、許可を取り運上屋と漁場を開いた商人に委ねられる訳で。
勿論、運上金と言う租税をしたのは商人。
そして、

蝦夷地には寛政二年、各場所に藩士を勤番させるまでは、場所に派遣される交易船に、交易取締として藩士が上乗し、交易がすむと引き揚げたが、交易の始めと終わりに、蝦夷を集めて饗宴を開き、その節掟書を読み聞かせ、役夷人には特別の待遇を与えた。これをオムシャという。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日 より引用…

なんと1790年、つまり寛政元年蝦夷乱の後迄、知行地の場所にすら藩士を置く事をしなかった様だ。
実質的に、各運上屋は、その地に派遣された支配人を中心に役夷人らで管理運営された事になる。
藩としては「無為に治める」をその時点まで貫いていた。
新北海道史でも、引き渡す米の枡の誤魔化しや番人による姦淫、品物の不正らの記述がある。さて、この番人とは誰か?
藩士は勤番していない。
勿論、これらは幕府直轄や東北諸藩の執政化ではトラブルの話はない。
枡や取引相場の一定化、労務への支払いの固定化、物品の検品らを奉行名で指示し徹底しており、勿論立会らも含め実施。
なら、蝦夷衆への収奪を行ったのは誰なのだ?
我々的には、疑問が沸き出る場面。
1890迄、藩として取締る人が居なかったともとれるのだから。
因みに、運上屋において、蝦夷衆を集めたのは役夷人である。


さて、次。
ここまでで、この1700年代に松前藩、いや、北海道の社会,経済的背景が変わって行くのは解って頂けたと思う。
それと平行して本州で発生しているのが「飢饉」。
略年表にも記載したが、大規模飢饉のみで、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/20/054441
実態はこれだ。
米の先物相場が始まるのもこの時期。
石高「〇」の松前藩が影響を受けぬハズは無い。

「寛政元年の国後、目梨の乱の原因の一つは、天明の飢饉により米不足をきたし、米一俵が三升入となったためであるとさえ言われている」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日 より引用…

これの真偽の程は定かではないし、元禄の記録から寛政二年(1790)段階で約7割位に減っている様な記録もある。
運上屋でのレートも、場所請負人の裁量に任された部分もあるので、この辺は計り難い。
が、飢饉あらば、取引レートは変えざるおえなくなるのは確かである。
ここを押さえないで、交換レートが七割位に落ちたとするのはおかしな話なのだ。
一応、大阪と江戸では枡のサイズが違ったり、各藩で微妙に違ったりしたのが現実らしい。
但し、幕府から出ている通達上、枡に手を加え秤量を誤魔化した事が発覚した場合商人は獄門だったとか。
その辺もあるので、幕府直轄時には枡の統一やレートの固定を行ったのかも知れない。

とりあえず、本項ではここまで。
実際、藩の運営の側面、社会,経済的背景の側面等々、それだけでも一つブログを作ったり、著作を一冊書いたり可能なボリューム。
だらだら書いても仕方がない。
上記も記載内容の並べ直しからの一側面であり、後の研究で進んだ部分もあるであろう。
だが研究者達は、最低上記程度の問題点を全て頭においた上で検討してるであろう。
まさか、その論を通す為にはタイムリープが必要なんて事はあるまい。
万が一あったならそれは研究者ではなく、活動家だ。
あいにく我々メンバーの中には、所謂「自虐史観」の者はいないもんで。
活動家の引っ掛けには、掛からない。


参考文献:

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日