海上へのフィールドワーク…交易の動脈たる日本海ルートの景色を見てみよう

敢えて、項頭の関連項を示さずに書いてみる。
むしろ、これが現物確認を旨とする我々のスタンスそのものであろう。

我々は、「シーパワーとランドパワーでは見え方が違う」,「日本海ルートはもっと開かれていたハズ」,「大量物流は陸路より海路ではないか」,「日本海沖では位置確認が容易」等々語ってきているが、ピンとこない方も居るだろう。
書物や論文らでも、関東→福島→宮城(多賀城)→岩手の城柵を通過する陸路に重きを置く方は多い。
では、海路側はどうか?
見てみれば、大量物資の主要ルートは実は日本海ルートなのではなかったのか?と発想転換可能であろう。
と、言う訳で「海上へのフィールドワーク」を敢行。
これは筆者が沖釣りが好きで、秋田沖に出港しているついでで可能である。

秋田沖は、自分の位置を簡単に確認出来ると毎度言っているが、能代沖でそれを確認してみようと思う。
先ずは元々の地形を把握しよう。
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Googleアースより。
青森県の深浦周辺から、秋田県秋田市付近迄。
深浦町八峰町の間に白神山地があり、山は海辺まで張り出している。
そして男鹿半島日本海に突き出る様にあるのがわかる。

では、フィールドワーク結果を。
この画像は、能代から出港、北西方向へ航行する漁船の船首付近から、夜明け前後にほぼ連続的に写した物。
つまり西側海上から沿岸を見た物になる。

海上から見た白神山地
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右舷側に見える。
日中であれば、大崩山らが緑の中に白く見え、格好の目印になる。

海上から見た能代方向
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沿岸に近付くと能代周辺の砂浜も見える。
北西へ進んでいるので、右奥の○は森吉山ら出羽山塊は、左舷後方に見える。

海上から見た男鹿半島
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左舷側に見える。
さすがに陸地はよく見えないが、○を付けた新山や本山はよく解る。
島っぽく見えるのだ。

では能代沖を実際に北上して航行した場合を想像してみよう。
北上なので、陸地は全て右舷側に見える。

a.前方右に白神山地が見えるので、それを目標にする

b.森吉山らや砂浜との関連で、岸からどの程度離れているか把握可能。

c.後方を振り向くと、真後ろに男鹿の新山,本山が見える

解って戴けただろうか?
aとcの確認で、ごの程度進んでいるか?
bの確認で、岸からどの程度離れているか?
つまり、白神と男鹿で南北方向が、森吉山らで東西方向がそれぞれ把握可能になる。
当然、コンパスも羅針盤も不要。
そのまま山だけで四点測量をやっている様なもの。
操船免許を持たない筆者でも、船頭がどのポイントを連れて行こうとしているのか?がハッキリ解る。


これは、能代沖の話。
例えば、秋田市沖を北上するなら…

a.真正面の男鹿半島を目標にする

b.岸からの距離は由利本荘の砂浜らから

c.後ろを振り向けば、背中に鳥海山,飛島が見える
これで四点測量可能。
これらは、能登半島佐渡島、粟島ら海上の目標目標と、日本アルプス、親不知、笹川流れ、そして各砂浜らで全て置き換え可能だろう。
つまり、北陸~青森迄、目標物での位置確認は何処でも可能となる。
能登半島の先には敦賀等が。
ここからは鯖街道があり、都迄もう直ぐ…
案外、都は近いのだ。
確かに、中世にて安東氏の算用状の鉛搬出状況より、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/17/201849
安東氏は敦賀に対都,畿内への拠点を持ち、自前の船を運航していたのは報告済み。
更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505
朝倉氏や上杉氏が、安東氏と好身を結び、日本海ルート交易拡大を図ろうとした事も報告済み。
また、中世安東氏で言えば、拠点にした山城は「檜山,脇本,浦城」それぞれに登れば解るが、海側の視界が開けていて、航行する船は見えただろうし、それは古代朝廷の城柵「秋田城」でも同様。
男鹿にでも水軍を臥せて置けば、通告税らの徴収も簡単だったであろう事は想像に易しい。

これは縄文以降言えるのかも知れない。
鳥海山の噴火や象潟隆起等あれど、新たな火山噴火で山が増えたり島が減ったりは余りないであろう。
概ね日本列島の形が決まった頃には、こんな位置確認での行き来は可能だったであろう。

さて…
北方交易を含む日本海ルートの実態は、あまり詳しく解ってはいない。
どんな形でどの程度の大きさの船だったか?どんな積み荷だったか?…詳細は謎。
仮に沈没船の発見に至れば、それらの一面が明らかになってくる。
そんな意味で我々は、湊の特定も含め「水中考古学」に期待している。
いつか…
都~秋田城を行き来した朝廷船…
十三湊を埋め尽くした「夷船」「京船」…
瀬戸内海迄出向いた「関東御用津軽船」…
らを解き明かしてくれるのではないかと。


如何であろうか?…
幾らかでも説得力があれば良いのだが。
特に物流の視点で見れば、この傾向は強く出る物と考える。
何せ、陸路より船の方が輸送能力は高く、山賊に襲われるリスクも減る。
それを見落としてはいけない。