「通商の民」に不足する物、続編…南部信直公が教えてくれた「蝦夷船ドック」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505
さて、ここに繋げてみよう。
戦国期、上杉謙信公や朝倉義景公が、安東愛季公に日本海交易拡大の打診をしていた様だ。
太平の世になりつつあった豊臣政権下で、愛季公から家督を引き継いだ実季公はどうだったか?
秋田家文書では幾つか「算用状」が残されていて、直営の船で敦賀屋敷へ持ち込んだ物の内、秀吉公直轄領代官として大坂へ納めた物以外の米や材木、鉛らを売り捌いていた記録はある。畿内,北陸の豪商の廻船の他に直営船を持っていた様なのだ。

その船の断片を伺い知る事が出来る書状がある。南部家文書だ。
文禄二(1593)年に、南部信直公が八戸直栄公に宛てた「南部信直黒印状」。
現代訳で引用してみよう。


「なお、昨秋から田名部に百鳥屋(筆者註:上方商人か?との事)を待たせているそうだが、それでよろしい。田名部で蝦夷船を五、六艘造ったことは納得のいくことだ。水夫はたくさんいるのだから、秋田仙北の廃り米を田名部に廻送し金に換えるなり、他のものと交換するなりしたらよかろう。私が帰国したならば、時をおかずに秋田で大船を造りたい。また野辺地へ回し、必要なところを探して売りさばいてみせよう。」
「最近は普段に上方衆と付き合って、まったく心境が変わってしまった。帰国したらわかってもらえると思うが心境の変わったことを整理して帰ろう。昔の苦労に心を痛めて、昔はこうであったなどと言う者があったならば、すぐに置きざりになってもしかたないであろう。上方では身分の低い者であっても主人に一所懸命奉公すれば、取り立てられて侍になることもある。それを見たものは、自分も負けられないと一所懸命奉公するようになる"からくり"なのである。お前の方では、昔からの身分・家柄をよく調べて一族の中に組み入れていく。私らも以前はそうであった。しかし今は後悔している。上方衆は我々のような遠国衆をとかく軽蔑している。だから前田利家には月に一度はご機嫌伺いに行っている。そのほかへはどこにも出ないようにしている。日本の付き合いに恥をかくようなことがあったら、家名を汚すことになる。もし物議をかもすようなことがあったなら、その解決に大変な苦労が必要となる。朝夕、寝ても覚めても気遣いすることばかりで、その苦労を察してもらいたいものだ。」
津軽右京亮が、前田利家を訪ねて、初めからくり返し、一途に自分の考えを申し述べたので、奥村主計から失礼であるとやり込められ、恥をかいたという。その後は津軽殿は前田利家を訪ねて行けなくなってしまった。人付き合いは大事なので、気遣いすることばかりである。」

能代市史 資料編中世二」能代市史編さん委員会 平成十年七月三十一日 より引用…

えらく上方諸将に気を使っていた模様。
つか、中世から近世への変革に戸惑い、貨幣経済のたちあがりに驚く姿がまざまざと書き連ねられ、更には、八戸公に、「古い感覚でいたら取り残される」「九戸氏が滅亡したのは新しい時代へ対応出来なかった為」「大名同士の付き合いも、こんな古い感覚ではダメだ」と、諭している。
津軽為信公は、どうやら勝ち取った独立が少々脅かされていた様で、それを前田利家公を頼り打開しようとして、ひんしゅくを買った様だ。
田舎の感覚は、畿内らの諸将にはまるで通じないと言う事。
それもそう…秀吉公が、家名の後ろ楯ではなく実力で上り詰めた当の本人。
と、言って、南部家文書的にはそれがメインだか..


我々的に食い付いたのは、それじゃない。
蝦夷の船、「夷船」を田名部で造船していたのを書いてある。
オリジナルの表現ははっきり「ゑそ船」となっている。
田名部で5~6艘建造、野辺地でも格段したいとある。
更に、大型船は秋田で建造…
解説では材木の都合、能代ではないか?としている…ただ、秋田湊にも船大工はいた記録も。
南部公は、主に上方との交易用として使おうと考えていた模様。
特に大型船の建造技術を持っていたのは、安東氏だった事になる。
十三湊の様子を描いた古文にある「京船」とは構造が違う船か…わざわざ表現を「ゑそ船」としている。

これなら、江戸幕府の世になり、秋田から安東氏を引き剥がす理由になる。
京船を使い、北海道と交易したければ、邪魔なのは安東…まぁ断片ではあるが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/143342
前々から我々が指摘している事だ…
通商の民等と言っても、蝦夷衆は江戸期に交易船を持っていなかった。
松前氏により、場所制で縛り付けられた話はあるが、そもそも、十三湊以降「関東津軽御用船」の話は古書にあり、直営船があっても全く不都合はない。
その乗組員が蝦夷衆で、安東氏の利益を稼ぎ出しながら大海原を行き来していたら?
確かに秋田湊に「蝦夷船」は来ていたと記録にある。

明確な蝦夷衆が乗る蝦夷船の湊や船そのものはまだ見つけられていない。

だが、船を建造した「ドック」は南部信直公が教えてくれた。
確実なのは…
南部水軍の拠点とされる下北の「田名部」…
そして、大型船を建造したのは、安東水軍の拠点?…檜山若しくは秋田湊になる。
一歩だけ、実像に近づいてきたか…


参考文献:
能代市史 資料編中世二」能代市史編さん委員会 平成十年七月三十一日