中世領主達が種を撒き、佐竹公が育てて刈り取る…「算用状」に見える、出羽鉱山王国の片鱗と経済や人の流れ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
能代市史にある「算用状」から、生活痕を追ったのでこれを少しだけ広げてみる。
書状,日記,算用状らは、藩や家臣が纏めた史書と違い、「一次資料」。
プロバガンダの要素を含み難いので、より真実に近い、当時の背景や人の考えがダイレクトに解る訳だ。

さて、下記引用は、「秋田家文書」にある、慶長四(1599)年に書かれた「秋田実季鉛山運上覚書」である。


「慶長弐年ニ 被仰付候鉛山御運上之事」
「一 百拾〆目 慶長弐年の御運上。但六月(与)七月中迄 八月(与)山くつれ申候て山し共罷出候。」
「一 慶長三年之御運上。四月(与)九月中迄相定候。十月(与)雪御座候て山不仕候。」
「一 三百貫目 慶長四年之御運上。四月(与)九月中迄相定申候。」
「以上、」

能代市史 資料編中世二」能代市史編さん委員会 平成十年三月三十一日 より引用…

以上の様に、慶長二~四年の鉛の産出や状況について記載されている。
一貫目=約3.75kgとして…
三百貫目=約1ton125kg/年程度となるか。

この資料には付随して…
①…
安東公の直営船で敦賀に運び込んだものも残され、能代で「金子二枚(二十両)」の鉛が、敦賀で「金子三枚三両(三十三両)」に売れた事を示す「算用状」
②…
阿仁代官の「嘉成十兵衛」が徴収した米を「長崎五左衛門」が受け取り、「鵜瀞長右衛門」へ渡した事を示す「算用状」
③…
「鵜瀞長右衛門」がその米を鉛山で売却した事を示す「算用状」
これらが残っている。
これら①~③の主な宛先は、重臣「大高又兵衛」宛。
経理担当役員への全くの収支報告書と言える。
ここで言う鉛山とは…
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1296749500799672320?s=19
藤里町にある太良鉛鉱山。
と推定される。
ここは1300年前後に開山された伝承がある。
鉛山の経費と思われる「算用状」の中には、「灰吹」に携わる職人への支払いもあるので、小,中規模ながら製錬もしていて、出来た鉛を売り捌いたり、秀吉,秀頼公らに献上したと考えられる。
秀吉公は、石見や佐渡を押さえていたし、鉄砲は言わずと知れた話…鉛の需要は高いであろう。
まして、江戸期なら「マタギ」は自ら溶かし鋳型で作っていた。
当然、自分でも使ったであろう。

これが後、江戸期に…
太良鉛鉱山の「鉛」
+阿仁銅山の「銅」
二ツ井の「凝灰岩」
→加護山製錬所&米代川水運…
これらが一体となり、久保田藩をガッチリ潤す事になる。
阿仁銅山も元々は金山として、1300年代位に開山されており、嘉成氏が昔から安東氏に従い、この時代官をしていたのは解っている。
つまり中世で、安東公は、後の鉱山王国出羽国の基礎を作っていた事になる。
これ…旧小野寺領の「院内銀山」も、佐竹公入部直後位に開山、採掘開始しているので、佐竹公の指示で銀山を探し当てたとは考え難い。
時系列で並べれば、既に中世の安東公,小野寺公らが撒いた種を、佐竹公がガッツリ育て拡大し、日本有数の鉱山王国に仕上げたって事の方がスッキリするのだ。

これらが、出羽国秋田は、表面上の石高より実石高が遥かに多かったと言う理由。
説によれば、検地で27万石とされた久保田藩は、実石高が50万石に近かった様です。
安東公は一握りの家臣団しか連れて行けず、佐竹公もそれは同様。
故に入部後に、従来から秋田に居た人と連れて来た人々との軋轢調整に随分悩まされた様だ。
これだけ、元々利権あらばそうなって当然。
まぁそこは「稀代の律儀者」…と、言う訳だ。

と、言う訳で…
話は突然飛ぶが、佐竹公が入部前には、敦賀の商人との安東公配下の商人とのネットワークは完成されていた事になる。
定期に船を回せば、人々は動く…
つまり、佐竹公入部前には、キリシタンは居た可能性がある。
何せ院内銀山開山を見つけたのは、関ヶ原の残党の侍との伝承もある。
アンジェリス神父も、東北に辿り着いた時には、既に2000人のキリシタンが出羽に居たと報告している。
何も陸奥経由「だけ」で、入る事もない。
船ならアッサリ渡れる。

まぁ前項も本頃も、歴史の教科書に乗る事は無い。
こんな資料の中にひっそりと眠る。
自分で学ばねば解らぬ話なのである。
安東公の活動も…
通貨体制の片鱗も…
実石高の状況も…
そして、キリシタンの状況も…
自分で学ばねば解らぬ。


参考文献:
能代市史 資料編中世二」能代市史編さん委員会 平成十年三月三十一日