京のキリシタン伝承を学んでみる…「西ノ京ダイウス町」とキリシタン墓

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/10/200512
前項になる。
高山右近高槻城キリシタン墓地…
廃絶された城故に発掘されたが、墓地として存続し一族が続いていれば当たり前だが発掘対象にはならない。
何らかの理由によりその土地が違う用途として使用されたからこそ、墓地が発掘される訳だ。
キリシタン墓地については、今も文献らを探しているが、たまたま一例みつけたので紹介したい。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/11/174246
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
秋田と宮城の事例。
では今回は何処か?
「京」の都。
南蛮寺があったと言うから当然と言えば当然。
今回の図書は研究文献ではなく「京都のキリシタン史跡を回ってみよう」と言う趣旨のものなのも付け加えておく。

では引用していこう。
まずは確実に見学可能なもの。

「最初に、京阪七条駅を東に歩むこと数分で、左手に見えてくるのが、京都の国立博物館です。そしてこの博物館の西正面を入った右側の木立のそばに、二つの丸いかまぼこ型の石が置かれています。これが、京都市内で発見されたキリシタンたちの墓石です。墓石の正面には、十字架・洗礼名などが刻まれています。慶長年間につくられたものと言われています。もう一つの墓石は、名前を書いてある部分がえぐり取られ、穴があいた状態をしています。実は、この墓石は立てて、庭の置かれ手水鉢として使われていたのです。」
「市内のキリスト教会の中にこのようなものが残っていないのは非常に残念なのですが、この国立博物館に数基、京都大学(百万遍)博物館にも十数基の墓石が保存されています。」
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「京のキリシタン史跡を巡る -風は都から」 杉野栄 三学出版(有) 2014.11.25 より引用…

こんなかまぼこ型をしていた。
そう言えば、高槻城キリシタン墓地も墓碑の穴が無かったが、この様な墓石だったのだろうか?
実際、バテレン達は南蛮寺を拠点としていたので、中世カトリックのガチのやり方に近くなるハズではある。
では、これら墓石がどの様な場所から出土していたのか?

「京都には、西ノ京ダイウス町と呼ばれる地域があります。じつは、京都には、ダイウス町と呼ばれる町がいくつかあったようです。これらは都の古い地図には名前が記されていますが、西ノ京ダイウス町と呼ばれた地域は、記録に残っておりません。あくまでこれは、口伝として、語り伝えられてきた町です。西ノ京ダイウスは、都の西に位置する所で、現在の西大路太町「円町」から東に二筋目の細い通りで、北に上がると北野天満宮に向かう道筋で、人びとに天神道と呼ばれ親しまれてきた古い小道です。」
「この地域一帯を西ノ京ダイウス町と呼んでいたようです。ダイウスはもちろん、デウス(神)ですが、人びとは、ダイウス辻(大宇須辻子)、ダイウスの町と呼び、キリシタンたちが共に住んでいたと考えられます。」
「前略~この地域にも小さな聖堂があったと言われていますが、やがてキリシタン迫害の時に焼きはらわれたと伝えられています。いまは、跡形もありません。ただ、私たちを驚かせたのは、この地域から、いくつもの古いキリシタンのお墓が出てきたことです。このあたりにキリシタンがまぎれもなく住んできたことが、このことを通して、知られるようになりました。」

「京のキリシタン史跡を巡る -風は都から」 杉野栄 三学出版(有) 2014.11.25 より引用…

複数の墓の出土で、口伝が立証されたパターンになる。
また近辺の「椿寺」と言われる地蔵院にも一基、手水鉢に流用されていたキリシタン墓がある様だ。
更に、春光院にかつて南蛮寺にあったとされる鐘(IHS刻印あり)がある。

そして上京区の松林寺には、また別の形のキリシタン墓がある。
ここは聚楽第の一角だと考えられら場所で、
「墓地の片隅にたくさんの無縁仏の墓石が並んでいますが、その中に、この墓はありました。注意深く見ると、十字のしるしをはっきりとみることが出来ます。右側には、慶長八年十二月二十五日、日にちまでしっかり記された墓碑です。左側にはさんはうる(ら?)の日と字が読めます。さんはうるの日は、セントパウロの日のことだろうと思われますが、うっすらとこの碑のなかから読みとることが出来ます。」
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「京のキリシタン史跡を巡る -風は都から」 杉野栄 三学出版(有) 2014.11.25 より引用…

同墓碑は同書によると、この後で洛西パプテスト教会に移されたとある。
こちらは、かまぼこ型墓石ではなく、墓碑のタイプ。
拓本を見ると、円空の位置付近に✝️を確認可能。

これらを見る限りでは、後の禁教令らで土地利用が変わり、埋められたり移設されたりしたために地中で眠ったり寺院に保管されたりした?とも考えられる訳だ。
恐らく、似た事例はあるだろう。
時代を経て、✝️が他の表示に変化して行ったのもある意味当然。
上記の他にも、同書ではキリシタン縁の場所は幾つも紹介されている。
回ってみるのもありだと思う。
但し、公開されているもの、未公開なもの双方ある。
当然ながら信仰の対象とされるものなので、事前に問い合わせや確認は必要だと付け加えておく。
学びのスタンスは必要であると考える。

さすがに都。
また、他の地域らの事例も探していこうと思う。
その比較により、少しずつ北海道でも痕跡が見えてくるのではないだろうか…





参考文献:

「京のキリシタン史跡を巡る -風は都から」 杉野栄 三学出版(有) 2014.11.25