「徳丹城」と陸奥エミシ…そして陸奥エミシと北海道・樺太との関わり

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912
弘前に続き、フィールドワークによる学習結果と行こう。
「徳丹城」をご存知だろうか?
古代「斯波郡」、現在の岩手県矢巾町に造営され、8~9世紀に東北で築城ラッシュした最後をしめた律令制城柵となる。
国指定史跡に隣接した「矢巾町歴史民俗資料館」訪問からである。
「徳丹城」は当初から築城予定されたものではない様で、坂上田村麻呂の立案により、
そこから北に「志波城」が「鎮守府胆沢城」「払田柵」らと同時期に作られていた。
だが、志波城が北上川氾濫により破壊され、814年頃に急遽10㌔位南に移された様だ。
これまでの「徳丹城跡」発掘や近隣の「藤沢犾森古墳群」の発掘結果より解ってきたこの周辺の7~8世紀の状況は…

陸奥エミシの村が出来る…
近辺に「藤沢犾森古墳群」があり墓域となり、徳丹城付近が居住域となっていた。
これは徳丹城より下層から多数の竪穴住居跡が検出されている事で明らか。
「藤沢犾森古墳群」は江戸期位迄古墳の円墳が古絵図に残されており、概略300位はあったのではないかと想定されている。

②小規模官衙が出来る…
「徳丹城」政庁部の南東側に官衙跡が検出された。
これは現状「徳丹城」造営部隊の現場事務所的なものと推定されているそうだ。

③「徳丹城」築城…
外柵約350m角と、周辺城柵の中では最小で、北側は築地塀、東,南,西の三方は丸太による柵列となっていた。
政庁はコの字型配置の掘立建物があり、古代城柵の特徴を持つ。

④機能停止…
「前略~陸奥国最北にして最大の志波城が坂上田村麻呂によって造られる。ところが、その2年後、藤原緒嗣と菅野真道との間で天下の徳政についての議論が成され、社会を著しく疲弊させる原因であった「造作(平安京造営)と軍事(蝦夷征伐)の両事を停止する」という政策変更が打ち出された。その政策の変更を受け、8年後の弘仁2年(811)には、田村麻呂の意思を継いだ文室綿麻呂によって、爾薩体・弊伊の二村(岩手県北地方)の蝦夷が平定されると、軍事行動にピリオドが打たれた。」


「国指定史跡 徳丹城跡」 矢巾町教育委員会 2000.9 より引用…

基本的に、積極的な軍事拠点増設には先に終止符を打つ方針転換は成されていた。
よって、状況により、鎮守府胆沢城へ機能を移す事は決まっていた様だ。
遺構,遺物からは9世紀中葉頃で、機能停止したと推定される。

⑤徳丹城下以外にも村落が広がる…
9後~10前半位に「徳丹城」区域外に竪穴住居や掘立建物が建ち始めており(館畑遺跡ら)、村落として拡大している。

この様な経緯。
⑤はこれを律令制の崩壊による支配力低下によりこの周辺の支配圏放棄と捉える考え方もあると記載ある。
理由は「延喜式」でのこの周辺の記載が抜けている事からの様だが、筆者個人的には疑義的だったりする。
理由は、
①胆沢城より北に「黒石寺」や「国見山廃寺」の建設がされるのが9世紀中葉より。
実は「矢巾町歴史民俗資料館」の後に「北上市立博物館」を訪れた。
丁度「国見山廃寺」についての特別展をやっており、その開山は9世紀中葉とされる。仏教伽藍を持つ道場の要素を持ち、876年には鎮守府での最勝王経,吉祥悔過を講修を裁可ともある。
ある程度平定が進み、むしろ仏法や修験道を広める事で、平安を進めようとしたのだは?
②「別将」の墨書土器の出土
これは全国で類を見ない「徳丹城」だけの検出例との事。
「別将」とは、正規軍以外に編成された軍の将の事らしい。
この地域が11世紀頃にどうなっているのか?
そう、俘囚長「安倍氏」が勢力を張った地域。
鎮守府将軍の下に「俘囚長」による俘囚軍をぶら下げれば、警察行動や治安維持が可能となる。
時同じ頃、出羽では「元慶の乱」が勃発、その後戦略物資「製鉄」「須恵器窯」が拡散している事と合わせれば、この頃から俘囚の長による間接統治の方向へ舵を切ったのではないか?と言う事。
浅学の筆者の予想なぞ話にならないであろうが、陸奥,出羽両国司は朝廷への租税は怠っておらず、むしろ馬らは貴族らによる私的取引を禁止する等の触れを出している。
「夷の事は夷で」…この前提を用いれば、そんな事も考えられるのではないか?と言う事。
現実的に、この頃から俘囚同士を意識した「防御性環壕集落」が出来てきて、それらを束ねた安倍氏清原氏が周辺俘囚を勢力下にして勢力を持つ。
それを奥州藤原氏が統一した…ここまでが史実。
合理的に考えれば成り立ちそうな気がするが。
国見山廃寺は安倍氏の庇護の元、10~11世紀に最大に繁栄し、奥州藤原氏の時代に平泉の繁栄とは逆に衰退を迎える。
辻褄は合いそうだが。

さて、本題…
実は、「徳丹城(と言うより下層の陸奥エミシの村落)」「藤沢犾森古墳群」は北海道とも繋がりがある。

「徳丹城が載る地形(段丘)上には、7世紀後半~8世紀前半を中心とする徳丹城以前の住居群、つまり、藤沢犾森古墳群を営んだと思われる人々の集落がある。」
「竪穴住居から出土する遺物には、土師器・須恵器といった土器の他に、鎌・鋤・鍬・斧・刀子・鑿(筆者註:ノミ)・釘等の農工具、絞金具等の馬具、ヤス等の漁労具等、鉄器類が多い。また、土製紡錘車の出土数も多い。」
「最近の徳丹城(筆者註:その下層竪穴住居群含む)の調査では、7世紀末~8世紀初頭期の地元産の土器類に混じって、黒曜石や北海道系の施紋を有する土師器の出土も観られた。」

「他地域との交流の証は、藤沢犾森古墳群出土の副葬品・供献品類に特に顕著に表れる。須恵器・鉄器・青銅器・翡翠・ガラス・錫・琥珀・漆等、様々な文物が入ってきている。」
「古墳は基本的には円墳である。遺体を葬った主体部と主体部の周囲を巡る湟(溝)とからなるが、墳丘は削平されて存在しない。主体部には底に玉石を敷き詰めたものと、穴だけ掘ったものがある。」
「前略~葬送行為としては単葬墓であろう。湟の大きさには大(直径13m前後)・中(直径9m前後)・小(直径7m前後)の3種がある。まれに直径3m程の極小タイプもある。また、湟の存在しない主体部だけのものもある。湟は、円形に一周するものと、南側の一部が切れて馬蹄形状になるもの、加えて南側の底が浅くなるものがある。基本的には円形を示すが、隅丸方形を示すものがある。」
「この領域が「死の領域」であるとすれば、徳丹城のある地形は「生の領域」としての集落地である。それを証明するが如く、未だ1基の古墳の発見もない。」
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「国指定史跡 徳丹城跡」 矢巾町教育委員会 2000.9 より引用…

北海道系土器に加え、黒曜石はX線解析で、
宮城県大崎付近
山形県月山付近
秋田県田沢湖付近
そして、
・北海道赤井川付近
と特定されている。
赤井川村の場所は?
そう…余市より内陸へ入って行った先だったりする。
その辺から運び出された黒曜石が、矢巾町へ運び込まれた事になる。
副葬も鉄鏃や刀の類、勾玉やトンボ玉の様なものと似たようなものがある。
又、同書によれば、この時期岩手県での須恵器窯は検出されず、須恵器はもっと南の官衙らからの搬入になるのだろう。
土師器は、地のものと特定されている。
あれ?
どこかで聞いた様な話…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
そう、江別・恵庭古墳群とよく似ているのだ。
ここから南、江釣子古墳群では川原に近くほぼ石を敷き詰め石室が組まれる。
だが、ここでは石がないものまである。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
だから、東北ではこんな指摘がされ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
考古学的見地ではこう判断されると言う事だ。
丁度、北海道に於いては続縄文が終焉し、擦文土器が正に生まれよう、生まれ出た辺りの交流痕跡と言えるだろう。


容姿が似ている…
これだけならまだある。
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これは「徳丹城」の井戸跡から出土している。
木製全面漆塗り…そう兜鉢と考えられる。
秋田城出土の小札鎧と合わせ、当時の城柵鎮兵が身に付けていたと思われる貴重な遺物。
これらを合わせ、これが復元された。
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近い時代の遺物の組み合わせ…蓋然性は高い。
さて、これが矢巾町歴史民俗資料館のパネル。
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樺太エンチュの武装姿。
似ていないか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/29/200405
往古、陸奥エミシは自らを「エンジュ」と名乗り、樺太エンチュは「我々はアイヌではない、エンチュである」と名乗ったと言う。


行き当たりばったりではあるが、また理解深める物証に出会えた旅であった。
まだまだある。
あるであろう。

「北海道と東北は古代から繋がっている。それが切れた事はない。」







参考文献:

「国指定史跡 徳丹城跡」 矢巾町教育委員会 2000.9