https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/09/163326
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/10/200512
前項に引き続く。
と言うか、人口インパクトから考慮したキリシタンの北海道への流入は、北海道~東北の関係史では、ある意味「核心」部分の一つでもある。
と言う訳で、今回はその背景から引用してみる。
昭和61年当時の石井仙台市長記載の序文である。
「戦災復興事業による仙台駅西部地区の市街地の整備に引き継いて、戦災を免れた仙台駅の東部地区の都市基盤を整備するため、公共団体施行の都市改造事業として始めたものであります。本地区は、藩政時代、新寺小路を中心に多くの寺院を配した町造りがなされてきたところであり、狭い道路と広大な墓地とによって秩序ある市街地の形成が阻害されていた所でもあります。」
「新寺小路地区土地区画整理事業 事業誌」 仙台市開発局都市開発部区画整理課 昭和61年12月 より引用…
要は、戦後復興事業の一つとして、仙台駅東側を開発、自動車利用の拡大からの道路拡張含み、寺社や墓地を含む大規模移設を行う事業。
中でも、墓地移設は訴訟に迄及び難航。
最終的には和解に至り、「葛岡丘陵」の新墓園へ移築し、現在に至る。
ここまでが背景である。
実は次の文献は、たまたま古本屋で見つけたもの。
このような事業の一端に、先祖を含めて研究されている方が居た。
単なる地方研究者とは言えぬ。何せ、監修協力したのが、日本年報やアンジェリス神父の書簡を翻訳した上智大教授でイエズス会司祭のH・チークリス博士と、東北大名誉教授・法政大教授の豊田武博士。
そして、この文献には、この大事業の一端で起こったこんな秘話が隠されていた。
「元和八年十二月(一六二二)の厳冬、前代広瀬川のほとりにある刑場花壇に於て、只野利右衛門夫妻と、その女子三名が首を切られて殉教した。この殉教の模様はすべて口碑により伝承され、親から子、子から孫に語り継がれて今日まで三百五十六年を経過している。家譜からは抹殺され、その墓石も殉教から六十三年後の天和三年(一六八三)に許可がおりている。現存する墓石はこの時のもので、霊名も俗名も許されず、たゞ法名だけのもので種子(筆者註:円空の位置)は仏教のものとは違い、アルファベットのCの変形とも見られる釣り針の形式の種子である。」
「口碑によると三名の殉教者は何れもルイス・ソテロ神父による受洗と伝えられている。この元和八年という年は、ローマに派遣された支倉常長が7月に病死し、翌九年十二月には、デ・カルバリヨ神父其他の広瀬川の殉教があり、日本全土がキリシタン取締りのため騒然となりつゝあった時である。」
「仙台市では昭和四十四年以来、都市計画のため、新寺小路一帯の墓地を全部葛岡丘陵に移転することとなった。只野の墓地は、昭和四十六年九月から発掘がはじめられたが、墓石や記念碑、頌徳碑が全部で百四十余基もあるので中々進行できなかった。」
「十一月二日、いよいよ殉教者の墓発掘の日がやってきた。この日は八日間も秋の長雨がつゞいたが、秋日和の快晴となり、この発掘を祝福するにふさわしい好日となった。墓堀人夫六名と共に先祖の眠る墓を発掘した。前もって人夫には発掘を慎重にするよう話しておいた。」
「はじめに利右衛門資永の墓を発掘した。地下約八尺位のところに、木炭がいっぱいつめてあり、その中から一尺五寸の木箱が出てきた。中には頭蓋骨が一つとバラバラに腐食したロザリオが一本はいっていた。空気に触れたのか、骨も箱もすぐ崩れてしまった。妻や女子の墓も木箱の中に頭蓋骨があったが崩れていた。私も人夫もこの一瞬声が出ない程に感動した。すでに秋の日は沈みつつあった。三百五十年三百五十年も口碑により伝えられてきた殉教の事実は、一本出土したロザリオによりその真実を認識した。」
「只野氏は元の姓を鎌倉氏と称したが、福島県郡山の西方、只野村の城主となって只野氏と改めた。応永十七年、伊達氏との戦いに敗れ、城主只野大炊頭景連は戦死したが、伊達氏と和睦して城を明け渡し、伊達郡に居住するようになった。戦死した景連には二人の娘があったが、第十一世伊達持宗の配慮により養子をもらって只野氏を嗣がしたのである。伊達家が伊達郡から米沢、岩出山、仙台と移城するのに従って家臣となってから明治維新まで、四百五十余年の長さに亘つている。」
「元和八年、仙台で殉教した三名は、六十三年後の天和三年に墓石の建立が許された。」
「みちのく切支丹」 只野淳 (株)富士クリエイティブハウス 昭和53年9月20日 より引用…
「殉教者の墓地発掘」と言う項目ほぼ全文を引用した。
そう、この本の著者が、その伊達家家臣の只野家の末裔。
そして都市開発による先祖墓の移設に合わせて、家系図から抹消されたが口伝されている、キリシタン墓の発掘に立ち会った本人だ。
そこで出土したのが、打ち首された首…頭蓋骨のみの亡骸で、その副葬にロザリオがあり、口伝されたキリシタン伝承が証明された…と言う話。
これだけの背景、処刑の古書、武家の口伝、釣り針型の種子の墓石の下の副葬…
まずキリシタン墓に間違い無いだろう。
何とも表現出来ぬ感動…だが、我々的にはこれで終わらない。
さて、ここからが我々的な本題…
只野氏は、その発掘されたロザリオと共に出土したものの写真を撮っている。
実は他にも副葬品があった。その副葬とは?
「ロザリオ」…
「古銭」…
そして「和鏡」…
気がついたであろうか?
アイノ墓の副葬と丸被りなのだ。
アイノ墓では、
「ガラス玉(タマサイ)」…
「古銭」…
「和鏡(シトキ)」…
副葬と言うか、アイノ女性が代々親から受け継いだと謂われある、現物が博物館,資料館では展示されている。
恐らく、文献を入手した筆者が、たまたまゴールドラッシュとキリシタン、金堀の関係を学び且つ同時に、北海道の資料館や発掘調査報告書を見ていなければスルーしていただろう。
だが、Ta-b火災灰らの降灰前後ら時代背景や発掘結果、カルバリオ神父らが報告にある人口インパクト、金堀とキリシタンの関係、これらを鑑みれば、ぴったり合致するのだ。
勿論、全てなどとは言わない。
だが、アイノ墓の副葬や伝承品の何%,何割かは、キリシタン墓やそんな人々からの継承品の「可能性」が出てきた。
また、煙草の常習性ら文化に影響した「可能性」は考慮すべき点として浮上してもおかしくはない。
合致しすぎきるのだ。
もっとも、北海道史の研究者で、こんな内容を指摘しているのは、現状聞いた事はない。全くの盲点。
いや、むしろ、千軒岳大弾圧らがあった事実があり、アンジェリス,カルバリオ神父の来訪等が、わざわざ新北海道史らに記載されているのにも関わらず、何故これらに触れぬのか?盲点なのか?我々的には全く解せない。
不思議でならぬ。
さて、たった一つだが、背景的にかなり揺るがし様のない物証は、たった一つだが見つけた。
https://www.hokkaidokaitaku.club/kyousei/senkusya/etomo_ainu.html
幕末ではこんな話らが、ネット上にはある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/21/050255
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/194346
こんな話も指摘してきた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/11/183522
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/02/063246
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/06/135923
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/13/083842
只野家は伊達家家臣…伊達氏と北海道と言ったら、こんな指摘もしてきたが…
やたらと繋がるのだ…勝手に且つ、たまたま見た資料館や適当に買った文献「だけ」で。
当然、この件は継続していく。
たった一つだろうが、ここまで謂われが正確な物証もあるまい。
北海道の副葬としては既に出土している。
仮に「シトキ」を反射させたら、聖母マリアが映った等と言う実績でも出たら一発ビンゴ。
だから、我々は言ってきた。
蝦夷=アイノではない、アイノは蝦夷に含まれる…
そして今はこう仮説出来る。
蝦夷には「潜伏キリシタン」も含まれる…と。
アイノの実態が掴めなくても、これは仮説可能なのだ。
勿論、アイノに「潜伏キリシタン」を先祖に持つ者の可能性も含めてだ。
参考文献:
「新寺小路地区土地区画整理事業 事業誌」 仙台市開発局都市開発部区画整理課 昭和61年12月
「みちのく切支丹」 只野淳 (株)富士クリエイティブハウス 昭和53年9月20日