ポルトガル,スペインとオランダの関係、と言う背景…「十七世紀のオランダ人がみた日本」を読んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/20/181217
さて、一連、来日した西洋人が見た江戸初期の北海道の姿を中心に紹介してきたが、〆はこの当時の諸外国の関係(背景)を学んでみよう。
某公共放送で放送した「戦国」「英雄達の選択」らで指摘されていた内容を解説しているクレインス・フレデリック氏の「十七世紀のオランダ人が見た日本」。
これを見てみると、これまで見てきた事に合点がいくと思ったからだ。
何故、西洋人が極東の島国まで来なければならなかったのか?
解説されている。
本項でも『』内を引用文とする。
では、進めよう。


①そもそも、オランダとスペイン,ポルトガルはどんな関係なのか?…

オランダは元々15世紀位までに、伝統的自治権を尊重するブルゴーニュ公国傘下。
そこでは、各都市の自由貿易で形成されていた。
1477年にブルゴーニュ公爵の戦死と公女の婚姻でオーストリアハプスブルク帝国の一部になり、その後スペインハプスブルク家のフェリペ二世の時代に周辺国と共にスペイン支配下に入る。
さてここで問題が。

a.中央集権化による自治権縮小へ…
b.国教がカトリックな為にプロテスタントへの弾圧…
c.aに絡み、新たな課税制度導入…

ありがちではあるが、あちこちで反乱軍が出来、鎮圧なりの段階でオランダへ亡命し、資金力ら含めた力を増し独立。
そう言えば、スペインがポルトガルを併合したのもフェリペ二世の時代。
なので、フェリペ二世に忠誠を誓うドン・ロドリゴみたいな政治家が、オランダを許す訳もなく、仲が良いハズもなく。
オランダとポルトガルと言っても、オランダはポルトガルが当時持っていた最大利権、独占する香辛料利権を奪いに行くのが目標なので、仲が良いハズもなく…
元々香辛料は陸路シルクロードで運ばれた物を、ポルトガル人が喜望峰への迂回ルートで欧州に直接持ってくる事に成功して以来権益を独占していた。
ポルトガル船でアジアから運ばれた香辛料はリスボンから、ドイツ,イタリア,そしてオランダらの船で欧州全体に運ばれた。
が、フェリペ二世、ポルトガル併合後に、このオランダの中継貿易を妨害する様になった模様。
それで、ポルトガルをすっ飛ばし直接アジアへ向かえ…となる。


②では、ポルトガルはどんな風に香辛料を手に入れたか?…

『当時のヨーロッパでは、アジアの香辛料や絹などの需要があったが、それらの品物を購入するための交換品、とりわけ、金・銀・銅の供給がヨーロッパ側に不足していた。実際に、アジアに出航していたポルトガル船には、スペインの金貨を除けば、ほとんど品物が積まれていなかった。つまり、ヨーロッパはアジアに対して常に貿易赤字を抱えていた。ポルトガル人は、アフリカで得た金の他に、アジア内で金・銀・銅を調達せざるを得なかった。銀は特に日本に存在しており〜後略』
ではどうしたか?

1.スペイン金貨orアフリカの金を持ちアジアへ
2.その金とChinaの絹を交換
3.Chinaの絹と日本の銀を交換
4.日本の銀でインドネシアらの香辛料と交換
5.欧州へ帰る…以上。

基本的にこの時代の国際通貨は銀。
メキシコの銀を手に入れたスペインは安泰、だが、鉱物資源の無い欧州の国々は、こうやらざるを得ないのだ。
これで理解出来るだろう。
スペインの中のポルトガル商人勢力は、自分達が持つ最大利権である香辛料利権を守る為には、日本から離れる訳にはいかないのだ。
で、ポルトガル商人達がバックアップしていたのが「イエズス会」。
前項「ドン・ロドリゴ日本見聞録」を見る限り、スペイン商人やスペイン王に近い人々がバックアップしていたのが「フランシスコ会」。
オランダはそれらから断された側のプロテスタント
それぞれ、宗教的背景も微妙に違う。
イエズス会が、弾圧されて尚、しがみつく必要があったのか?理解出来る。


③オランダはどうやって、利権を奪ったか?

オランダは、香辛料だけでなく、初めからChina&日本での交易ルート開設が視野に有った模様。
『前略〜日本で莫大な利益を得られる事が記述されている。「ゴアに住んでいるポルトガル王の総督に何人かの忠実な船長や乗務員がいれば、その忠誠心は次のように報いられる。彼らは中国と日本に旅をし、そこて商業を行うことが許される。というのは、その船長や乗組員がこのような旅を終えれば、その時点から、渡航したり商業を行ったりしなくてもいいくらいの大金持ちになるからである。この事実から、日本及び中国でどれほどの利益が得られるかは容易に分かる。」』
では、やった事を…

⑴海賊…
ガチである。
スペイン,ポルトガル、時としてChina船を襲い、積荷を奪い、Chinaや日本で売り捌く。
世界一周らを「含めた」遠征と称して艦隊派遣を始める。
実は三浦按針が乗っていたリーフデ号も、そんな艦隊の一船。
当然、三浦按針と東インド会社に直ぐパイプが出来るのは言うまでもなく。
恐ろしいのが1613年、オランダに続きイギリスも平戸商館を開く。
東インド会社は何をやったか?
平戸を基地に「英蘭防衛同盟」を締結し、連合艦隊で日本に来たポルトガル船やマニラ行きのスペイン船を襲っていた…
イギリスも交易許可を得ていたが、撤退したのは、幕府にこの海賊行為を禁止され、利が無くなったから。
何せ、幕府高官の取引で海賊をやってしまい、実害を出す様になってしまった。
何故、やり過ぎになる?
というのも、明(China)は当時鎖国
ポルトガル租借地マカオで商売出来たが、オランダ,イギリスはそれが無理だった為。
因みに、1620年の「平山常珍事件」は、この英蘭連合艦隊の仕業。
簡単に言えば、朱印状を持った平山常珍の商船を連合艦隊が拿捕。
拿捕そのものは違法だが、バテレン2名を商人と偽り船に同乗させていた事をオランダ,イギリスが証明し、幕府のスペインへの不信感が極大に達した様だ。
勿論、平山とバテレン2名は火刑、元和の大殉教の引き金となる。
又、ググッて戴ければ…
平山常珍の事例の他に、「末次平蔵」や「村山等安」「沢野忠庵」の事例もある。
宗門改やキリシタンとの事で捕縛された場合、弾圧する側に回り、協力する事例は幾つか知られている。
事例によっては、宗派による利権の差らが背景にあると思われる節もある。
単に「キリスト教」と言う枠だけで考えてはいけないのかも知れない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920?s=09
確かにブレスケンス号の船長らは捕縛されたが弾圧された訳ではなく江戸送り、ブレスケンス船隊は拿捕されてはいない。
また、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/20/141907
バテレンらが、一枚岩では無かった事は今までも報告している。
アンジェリス神父はイエズス会ポルトガル側、ソテロ神父はフランシスコ会でスペイン側。
勿論、当時のキリシタン達には、そんなもの関係無かったであろうが、神父(と言うより出資していたであろう商人か?)には、イニシアチブの取合いと言う側面は考えられるだろう。
この辺の背景は考慮すべきかも知れない。

⑵拠点への武力攻撃と制圧…
これが某公共放送でやっていた話。
1612年に、初回の東インド会社定期船が入った段階から話があり、70人(内6名は大工)の日本人を渡航させたとある。
1613年、ティドレと言う場所のスペイン人の城の攻撃に参加…
『日本人の兵士たちは我々と同等以上の勇敢さを示した。彼らの旗が最初に城壁に掲げられた。しかし、多くはそのあまりの大胆不敵さによって怪我を負った。』
『前略〜彼らをたくさん雇って利用することはあまり有益ではない。なぜなら、彼らは国を出ると統制し難いからである。つまり、彼らの思うようにいかなければ、あるいは待遇か悪ければ、すぐに反発する。そのようなことは、その国では厳しい法律あるいはむしろ数人の独裁者によって防止されており、そこでは子羊のような存在であるが、国から出ると悪魔のような存在になる。』
現実は香辛料の採れる、モルッカ諸島攻略戦らに参加し、香辛料利権奪取に成功していると言う事は、それなりの活躍かあったと著者は見てる模様。
東インド会社アジア本部バタフィアには、日本人市民団が組織されて130人は直ぐに動かす事が可能とある。
そして来たるべき1635年、幕府の日本人の海外渡航,帰国禁止令によりバタフィア日本人市民団は孤立、少しずつ同化した模様。
十七世紀後半に、オランダ名を名乗る日本人や、東インド会社の上級商務官まで登り詰める猛者も居たと言う。
こんな風に、拠点を制圧していく事で、自分達の権益を増していく。
勿論、制圧した拠点経由でアジア各地に商船を回した。


鎖国とオランダ独占へのプロセス…

概ね、この様な指令を出し、西洋交易先がオランダに限定される。

・1612年 幕領に禁教令
1616年 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定
・1618年 イギリス,オランダの輸入鉛購入先を幕府に限定
・1621年 日本人のルソン渡航禁止。イギリス・オランダに対して武器と人員の搬出,近海の海賊行為禁止
・1623年 イギリス、平戸商館閉鎖
・1624年 スペインとの国交断絶
・1633年 奉書船以外の渡航禁止と5年以上海外居留する日本人の帰国禁止
・1635年 外国船(オランダ,China)の入港を長崎に限定し、東南アジアへの日本人の渡航と日本人の帰国禁止
・1636年 貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(混血児含む)をマカオ追放、残りのポルトガル人を出島へ
・1639年 ポルトガル船の入港禁止
・1641年 オランダ商館、出島へ

実際、オランダの取引額はChinaの半分程度だった模様だが、むしろ西洋の様子を知る上で有用とされたのかも知れない。
出島から流出した文献らが、江戸中期からの「蘭学」に直結するのは、言うまでもない。
同時に東インド会社は、日本の情報を独占すべく、各船主らの日記などの出版を許可制にして情報統制を行った。
それまでイエズス会中心に発信された日本の情報は、東インド会社に乗っ取られる形。
又、本来、民衆の一揆的内容だった「島原の乱(1637~1638)」も、結果的には「キリシタンアレルギー」?を増幅させる事になったのもあり、後にポルトガルは1640年に交易復活の使節を送って来ているが、61名を処刑している。
因みに、オランダもプロテスタントとは言え、キリスト教徒には代わりはない。
幕府役人や商人から「目立つミサら、キリスト教徒らしい行動」は一切しない様にアドバイスを受け、それを実行した模様。
その辺は、イエズス会とはスタンスの違いはある様で、上記の様な殉教にも発信ニュアンスの違いはあるとの事。
何故か東インド会社の管理から漏れ、1637年に出版された「日本でローマ・カトリック教を理由に、恐ろしくて耐え難い拷問を受けた、あるいは処刑された殉教者の歴史」と言う報告だそうで。
そのニュアンスの違いとは?
『この文書はオランダ側からの視点から見た数少ない有益な報告である。ガイスベルトゾーン(筆者註:この報告の著者)の報告は、イエズス会士の報告と同様に、拷問や処刑の残酷さやそれに対するキリシタンの不屈を強調しているが、イエズス会士のようにキリシタンの信仰心の篤さを賛美している訳ではない。むしろ、キリシタンが聖書の内容をほとんど知らないのに、残酷な拷問に堪えていることについて、宣教師に洗脳されているからであるとまで批判している。また、キリシタンに対する長崎奉行側の対応が当初はとても穏健なもので、言葉や援助金などで長く説得に努めたが、なかなか改宗しないので、弾圧が徐々に厳しくなっていった様子を記述している。ガイスベルトゾーンはさらに、ポルトガル人の商人たちがキリスト教を棄てて日本の宗教に改宗したことも記録している。オランダ人については、オランダ人であると証言するだけで弾圧を免れていると記述している。』
との事。
正に第三者の眼とも言えるのかも知れない。
我々現代人が目の当たりにしたとすれば「オウム真理教事件」らになるか。
信仰深くなる事で、教祖の指示を絶対視する様になると洗脳された如くになり、殺人らも肯定する様になった事件性…このオランダ人であるガイスベルトゾーンには、案外、キリシタン達の様子がその様に見えたのかも知れない。
視点が変れば、その事象の評価は変わってくる。


さて、ざっと背景に関わりそうな部分を見てみた。
最後にこの引用をしておく。
オランダ人が将軍や鎖国をどう考えたのか?
上記を見て、これを読むと、今まで気付かなかった視点が見えると思う。
1611年段階で平戸商館長となった「レオナルド・カンプス」が東インド会社へ当てた報告書。
将軍についての記載。
『また、彼は誇りを持ち、自分の帝国から外には出ない。彼は誰にも戦争を持ちかけず、また、その国民が国の外に出て他人に危害を加える事や、外国の君主が彼らのために戦争に巻き込まれることを許さない。また、頼まれても彼は誰にも援助しないし、誰にも援助を求めない。彼の権力は、その帝国の大きさおよひ勇敢な兵士の数の多さにある。難攻不落の城が多く存在する。彼はどのような武器にも不足していない。糧食が十二分に存在する。富は不足していない。多くの銀および金の鉱山が存在する。銅、鉄、スズなどがある。絹も豊富にあり、また、綿、麻など何千に及ぶものがあり、日本の帝国がもたないものを想像できない。また、自給自足が可能で、あらゆるものが備わっている。隣国の君主と関係を持たず、自分の国に来るように陛下が求めたこともない。しかし、君主や国の代表が彼を訪れると、彼らは常に友人として歓迎される。門は誰に対しても閉ざされていない。』
カンプスは、基本的には、ポルトガルが状況を利用し巨額の富を得たのに対し、オランダは利益を上げられていない事を批判しているのだが、その背景にあるのは、将軍がオランダ人に対して独占権を与えたのは単なる善意からであり、日本には全ての物が揃い、わざわざ貿易する必要のない自給自足可能な国だからだと、説明している。
そうなのだ。
我が国もアジアも、そこだけで貿易を完結させるだけの資源があり、国で自給自足又はアジアだけの貿易で、何の問題も無かったのだ。
本当に必要だったのは、戦乱期を収める武器だけで、それが収まればそれも不要。
南蛮人が持ってきたのは贅沢品に過ぎず、無ければ無くても困りはしない。
資源が無くて困っていたのは、西洋人だけ。
故に段々下火になる。
勿論、必要に駆られた西洋人に、産業で遅れを取る危機は幕末に訪れるが…

ここを忘れてはいけない。





参考文献:

「十七世紀のオランダ人が見た日本」 クレインス・フレデリック臨川書店 平成22.7.20