「ainomoxori」の初見は?…それを記事したのは「イグナシオ・モレーラ」 ※追記有り

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/134039

せっかく初めて北海道へ渡った西洋人を取り上げたので、この際、初めて「アイノ」に類する言葉を使った人物にも触れよう。

アンジェリス神父が書いた地図にも記載があるが、最初にそれを記事したのは別の人物。

「イグナシオ・モレーラ(又はモレイラ)」。

どんな人物なのか?

歴史地理学会に寄稿された「日本地図の変遷とイエズス会報告」三好唯義(当時、神戸市立博物館の学芸員〉によると、

 

「彼の経歴としては,ヴァリニャーノの「日本諸事 要録補遺」の中でポルトガル人と書かれており1538年か1539年にリスボンで生まれたものと考えられている。史料の上からモレイラの姿が判明するのは1588年11月25日付のヴァリニャーノからローマのイエズス会々長への手紙の中である。そこでヴァリニャーノはモレイラのことを「聡明な知識のもち主で,地理学,地理学的研究にも適度に精通してい る人物」として,イエズス会に迎えるようにと述べてる。」

 

「日本地図の変遷とイエズス会報告」三好唯義  より引用…

 

との事。

ポルトガル人の地理学者で、イエズス会のヴァリニャーノに同行して来日し、滞在した二年間に鹿児島〜京の緯度計測や日蝕観測をした様だ。

ヴァリニャーノの信頼が厚く、上記の様にイエズス会へ入会させるべきと提案されている。

その後どうなったかは判然としないのだが、彼が残した地図(原図は失われている様だ)が、その後の西洋人が描いた日本地図やイエズス会の世界観に大きく影響したと考えられている。

ではまた海保嶺夫氏の「中世蝦夷史料」からその部分を引用してみよう。

 

「ここに附する島の部分は、これを日本人が蝦夷〔の島〕といい土着人がアイノモショリと称している。その住民からきくところによると、彼らはまた西方にある他の島々ばかりでなく、蝦夷の島の北方にある他の島々にもたびたび行っている。これはレブンクールと言われているが、朝鮮と連なっていると朝鮮人も言っている。この蝦夷の民族は、全く文明や礼儀に欠け、体格はよく、非常に力が強い。身に獣の皮をまとい、日本人より短い弓をもち、刀を頸から懸け、またその他のことでも日本人よりむしろ韃靼人をまねている。この〔韃靼人の地〕には、この地図にみえるように、非常に近いからである。これらのことを日本人からも、またインド副王の使節が都へ着いたとき、関白殿のもとへ遣わされたその島のある住民からも聞きとったのである。」

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫  三一書房  1983.5.31  より引用…

 

掲載の後ろに注釈し、イグナシオ・モレーラが文禄ニ(1593)年に秀吉に謁見した松前慶広一行に会って聞き取ったものと考えられている、としている。

松前慶広自身かまた同行者と話す機会があったと考えていた様だ。

それまでの日本地図は、ものにより大陸とくっついたものもあり、詳しくは解っていなかった様だ。

それでアンジェリス神父らも「島?大陸の岬(半島)?本当は?」となったのかも知れない。

で、これが「ainomoxori」の初見になる。

 

さてでは、我々的に考察してみよう。

①これは、あくまでも「聞き取り」によるもので、どう発音されていたかは未知数。

②この文脈なら「ainomoxori」は地理的な「物」を指して使われている。

③当時のイエズス会らの世界観はアンジェリス&カルバリオ神父らの話を絡めると、「東は北米大陸、西は韃靼、南は津軽、北は未知の領域に達し、近辺の幾つかの島を含む巨大な島の総称」だろう。

よって本道だけを指し示している訳ではない。

④引用文の通り、細かい説明はこの中には無く、意味合いはハッキリ書かれてはおらず、どんな質問に対してこの答えが回答されたか文脈も解らない。

⑤少なくとも「ainomoxori(アイノモショリ)」であって、「アイヌモショリ」ではない。

この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/161111

後の世でも同じ傾向。

途中の絵図でも「アイノ」であり初見以後一貫している。

つまり「アイヌ」はジョン・パチェラーの造語。

 

こんなところか。

勿論、その後、数多研究者が侃々諤々なのはよく知っているが、スタート時点はこんな風に割と曖昧なのだ。

で、アンジェリス神父にしても、地図への書入記事としてイグナシオ・モレーラの記述を引用した訳だ。

因みに、アンジェリス&カルバリオ神父は、「引用」以外「ainomoxori(アイノモショリ)」は使ってはいない。

「北方探検記」にある原版からチースリク氏が抜粋しているのは、

蝦夷→Yezo

蝦夷国→Yezo cuni

蝦夷人→Yezojin

と、聞いたまま記載しており、アンジェリス&カルバリオ神父が聞き取りをした中に「ainomoxori(アイノモショリ)」が登場した節は見つけられない。

あくまでも松前慶広又は家臣からイグナシオ・モレーラが聞いたもの「のみ」しか現状は見つけてはいない。

 

真相は如何に?

また、何処かで見つけたら報告しよう。

 

※追記…

一応、時間軸を改めて。

イグナシオ・モレーラが地図の原図を描いたのは1590年前後。

アンジェリス神父らが報告を行ったのは1620年前後。

タイムラグは約30年。

イグナシオ・モレーラが先になる。

また、直接話を聞いたアンジェリス神父は、途中はいざ知らず天塩,。ミナシと具体的地名を聞き出している様だ。

 

 

参考文献:

 

「日本地図の変遷とイエズス会報告」三好唯義 

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫  三一書房  1983.5.31