西洋人が残した記述からの考察…「ガラス玉」の背景

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207
ちょっとSNS上で話が出たのでピックアップしてみよう。
前項の様に、外国人が見た日本、北海道…を見てきたが、少々疑問になった事があった。
ガラス玉である。
アイノ墓とされる墓への副葬や、首飾りとして身に着けた話はあるが、この外国人達が土産として、ガラス玉の首輪飾りをプレゼントした話が結構出てくるのだ。
とりあえず、身に付けた首飾りやガラス玉の部分の主なところをちょっと引用してみよう。

択捉島
「私は、この未開のひとびとの中に殷墟さを見届けたので、テルナーテ煙草をニ、三つかみ与えると、喜んで受けとった。また、一連のガラス玉を女と子供の頸の周りに掛けてやると、たいへんよろこんでいるようにみえたし、また銘々の女に白い麻布川の小切れを与えたところ、なんとも形容のできないほど、幸福そうな様子をするのであった。」

「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」 北構保男 雄山閣出版 昭和58.8.20 より引用…

南樺太
「また、大きい舟の中には、頭上から長くたれている毛髪をもつ、色白な女性がひとり座っていて、その両耳には大きな銀環をつけ、頸のまわりには大きい一連の青玉をかけていたが、その玉の中には幾つかの別の種類の玉が糸に通されていた。」
(筆者註:翌日の村で)
「そこで函を開いて、男とその妻にそれぞれ若干の小ものを贈り、また回りに座っている女と子供たちにも同様に贈り物をしたのである。そこで一同は喜び、ことに誰かの首の回りにガラス玉を懸けてやると、タコイ・タコイと叫んで笑った。その家の主人よ妻は首の回りに大きな青玉の輪をかけているが、その玉の中には銅製の飾りといくつかの別種の玉が連ねてあった。」
「彼女たちの一人はいくらか装飾のついた麻の粗い長衣を着ていたので、これを水色の玉飾り三連と交換して脱いでもらうことにした。彼女は身を隠して皮の長衣に着換え、出てきて長衣を私に渡したので、それを納め一資料として本船にもち帰った。」

「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」 北構保男 雄山閣出版 昭和58.8.20 より引用…

北樺太
「最も主役の二人の人物(筆者註:婚礼衣装と思われる長衣を着ていた二人)に大きな青珠を贈呈すると、彼らは喜んでそれを受けとったのである。」
「小舟のところへやって来て、私がその婦人と子供に各自に青い筋のついた玉を贈ったところ、たいへん感謝して受け取った。婦人と子供は、各自その頸の回りに青い玉の輪をつけていた。」
(筆者註:上陸し村の家であちこちの家を訪問しつつ)
「また婦人と子供にいくつかの玉飾りと小さな耳環を贈ったので、彼らは非常に嬉しがった。」

「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」 北構保男 雄山閣出版 昭和58.8.20 より引用…

④厚岸…
実は厚岸では、耳環については記述があるが、玉飾りらの記述は無い。
女子供にプレゼントしたものは小物と記述される。

以上の通り。
一応、村らの話では正装に近い様な記述はあるので、青玉を着けている場面は幾つか見受けられる。
これを読む限りでは、フリース船隊の乗組員は、贈呈用にガラス玉や青珠らを事前に用意しており、事前情報はある程度調べていた事は何となく解る。
乗組員には韃靼人もおり、大陸側の状況からの推定なのか?
見ての通り、確実に首飾りを着けているのは、実力者の妻。
回りの女子供は、懸けてやるととても喜んでいるので、ある種の贅沢品や権威あるものと考えているのは解る。
やってない者がおり、それに懸けてやるのだから、それは喜ぶだろう。
勿論、近世アイノにおいては「タマサイ」があるので共通する部分ではある。
が、厚岸ではその記述がないのは少々きになるが…
さて、この青玉は「山丹交易」で入手していた事は、よく知られる。
http://bead2.blog26.fc2.com/blog-entry-19.html?sp
トンボ玉情報局様のHP…
https://www.isakaglassworks.com/history.html
井坂硝子様のHP…
http://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/040_gallery/detail.php?id=28
一乗谷朝倉氏遺跡資料館様のHP…

一乗谷でも朝倉氏がガラス工房を持っていたのは考古学的に証明されている。
以前にも書いているかも知れないが、江戸期に江戸や和泉らではガラス玉(トンボ玉)は作られており、古墳期来のガラス製造技術は一部職人らから大衆に拡散し、各地で作られていたが、江戸中期の贅沢禁止令で途絶えたりしている。
実は、
5代将軍綱吉公の時に松前公が山丹交易で入手したものが虫食い状だった為、「生類憐れみの令」に引っ掛からない人造だと証明する話は結構知られているかと思う。
実際、キリシタンには「ロザリオ」としての需要があり、江戸期前からそれなりに流通していたのは解るであろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
伊達家臣団の中でキリシタンとして処刑された人物の副葬にもロザリオはある。
本州でもガラス玉は出回ってはいたが、贅沢品として消え去っただけと言う事か。
勿論、数珠の材料らとして残った可能性もあるが。


では、宝石は?
実は織豊期や江戸初期の状況として、こんな記述がある。
「前略〜「茶」と呼ばれる、薬草から成るある種の粉で
調味した熱湯は、非常に高貴なものとされ、とても評価している。〜中略〜また、その熱湯を煮立てたり、薬草を蓄えるのに用いるつほやそれを飲むための土製のカップを、我々がダイヤモンドやルビー、その他の宝石を尊ぶように、とても高貴なものとして扱う。」
「我々があらゆる宝石を大切にするのと同様に、日本人はそれを(筆者註:掛け軸や日本刀の事)宝石や装飾品と見なしている。また、「そのようなものをなぜそんなに大切にするの」と問えば、「あなた方こそダイヤモンドとかルビーなどという石をどうしてそんなに大切にするのか」と日本人は答える。「というのは、そのようなものはまったく何の得にもならず、ながめるよりほか何の役にも立たない。日本人の物の方が何かの役に立ち、何かの役割を果たすのではないか」。」

「十七世紀のオランダ人が見た日本」 クレインス・フレデリック臨川書店 平成22.7.20 より引用…

この位に、価値観が違っていたようだ。
当然、古い物や鑑定士の存在を記載した上で。
もっとも、オランダでアジア交易で儲けて家財やインテリアに価値を重くしていく十七世紀では、漆器や陶磁器ら高級日用品が爆発的に人気を得て、欧州全般に伝播させるのだが。
こんな背景があった様だ。
身に付ける宝石や装飾品に、我々の御先祖は全く興味を示さず価値を見出してはいなかった。
あっても「ピカピカ光る変わったもん」と、珍しさに興味惹かれる事はガラス玉の流通で想像は出来るのだが。
たまたま、我々の御先祖が、世界的に見て「異常且つ固有の価値観を持っていただけ」なのかも知れない。

さて、大陸と交渉を持っていた樺太らの人々と、当時の本州の人々の価値観が一緒であったのか?
少々、微妙な気もする。
それが、宗教具としての意味合いも含めて珍重されてであろう部分も考慮の必要はあるのではあるが。
ただ、それが流通していた事実を考えれば、材質分析と形状らの特定から膨大なデータを集めない限り、編年指標に使える物ではなさそうな気はする。

アイノ文化の重要アイテムである事は確か。
だが、自ら製造する技術は保有出来てはいないので、「それは本州人や韃靼人が持ち込んだ物」「キリシタンのロザリオである」とすれば、それを確実に否定する材料にもならないのも確か。
発掘調査報告書らで「アイノ文化期の墓」とは記載しても、「アイノ文化人の墓」と断定していないのもそんな理由はあるのかも知れない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/23/121204
現実は、まだ墓から得られる事で各種を断定するにはデータ不足と言うところは否めない。
考古学研究者達の奮起に期待するしかない。
それだけ、編年指標の設定は難しい。
研究を待とうではないか。






参考文献:


「一六四三年アイヌ社会探訪記 −フリース船隊航海記録−」 北構保男 雄山閣出版 昭和58.8.20

「十七世紀のオランダ人が見た日本」 クレインス・フレデリック臨川書店 平成22.7.20