江戸期の支配体制の一端…「加賀家文書」に記される役アイノ推挙の記録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757
もう少し「加賀家文書」を観てみよう。

「乙名は部落長、脇乙名はその補佐役、小使は乙名の命によって部落の者を号令するもので、これを三役と称し、部落の統治はこの三役を通じて行われたのである。~中略~乙名以下役土人の任命は、もともと松前藩がまったく新たに選任したのではなく、蝦夷の慣習によって選ばれた酋長なり有力者なりが、乙名や役土人にたったのであるが、後にはしだいに和人の干渉が加えられら和人の都合のいいものが選ばれるようになった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30 より引用…

まず第一点…
新北海道史に於いても、
・藩役人との上下関係は寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)後の起請文により成立していた事は認めている。
・その選任は慣習により決められた。
ここは認めている。
実際、豊臣秀吉からの朱印状で松前慶広の独立が認められた段階で「逆らえば、秀吉討伐軍が来る」と脅しているので、松前との上下関係は、そこの気もするが。

では、幕末どうだったのか?
加賀家文書をみてみよう。

①シベツ住年寄宅蔵名主への繰上願

「恐れ乍ら書付けを以てお願申し上げます

シベツ住年寄 宅蔵
右の者、日頃から実意をもって仕事に励み、アイヌたちも従って居りますので、この度名主へ繰上を言い付けられますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。
文久元年八月二十八日 子モロ支配人 善吉

郡御役所 」


②シベツ村名主力助隠居、同所住アイヌ喜蔵年寄に取立

「恐れ乍ら書付を以てお願い申し上げます

シベツ村名主 力助
右は四年前から病気を患っていたところ、いよいよ老衰し、役を勤めかねるとのことを度々願出ていますので、どうぞ隠居を仰せつけられますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。 以上
万延二年二月十八日
通辞 伝蔵
支配人 善吉


恐れ乍ら書付を以てお願い申し上げます

シベツ村住アイヌ 喜蔵
右の者、常日頃から真心を持って働き、村中のアイヌの評判も良いので、お取立になって下されたいと、役アイヌたちから願出てますので、年寄役にお取立に下げ置かれますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。 以上
万延二年二月十八日
通辞 伝蔵
支配人 善吉

代官所

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31 より引用…

これら推挙により、代官所で検討の上、「役土人申渡」の書付で、申渡されるシステムの模様。

確かにこれを見ると推挙状は通辞,支配人名で行われている。
介在しようと思えば出来る事は出来る。
但し、見逃していけないのは、
①仕事ぶりの評価を下すのは支配人なので、推挙までは可能であろう。
②仮にここで無茶振りをしても、直接代官所へ申し出る事は可能。なので、余りに無茶振りな事は難しくなる。
③何より、全く慣習から外す訳にはいかない。
④勿論、代官には拒否権もあるであろう。
⑤「撫育」に協力的な者は「新シヤモ」として取り立てられた事は以前から指摘している。
これらは考慮が必要。

さらに…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
川村カ子トと川上コヌサの力関係はこう。
川村カ子トが元々の乙名(名主)を継いだ家系で、役土人制度が無くなる明治までこんな風な慣習は続いていた。

なら、加賀家文書と旧旭川市史の中間は?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/01/223305
ベンリクゥの力は絶大。
周囲の者は逆らえない。
つまり、単に支配人らの思惑のみで決定出来る程、簡単ではないと考える事が出来る。


まぁ、少なくとも前項も合わせ、上記の段階では、支配体制の歯車に組み込まれているのは解るだろう。
つまり、明治政府の思惑で組み込まれた訳ではない事は解るだろう。
何せ、最終的には代官所からの書付で効力を発揮するのだから。
独立性を訴えるのは少々難しいのではないか?、何せこんな物証があるのだから。
明治ではない。
「少なくとも」江戸期、それも寛文九年蝦夷乱直後には、こんな風になっていたのは事実だろう。






参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30