幕府や松前藩は本当に弾圧したのか?…「加賀家文書」に記される赤裸々な報告や史料の断片

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/08/062222
さて、一夫多妻ら家庭環境について。
前項にある、

「このようにアイヌが多くの妾をもつということは、裕福な和人が痴情的征服欲から妾を蓄えるものとはちがい、亡弟の後事を見てやるという深い愛情の発露から生じたものであり、また当時のアイヌ社会の労働力を根幹とした経済性から発生したものであった。」

平取町史」渡辺茂/河野本道 平取町 昭和49.3.31 より引用…

少々引っ掛かりが。
では、他の史書ではどう表現されているのか?

「結婚は自由ではなく、おそらく近親婚をさけるためであろう、~中略(男系は父からシロシ継承、女系は母から貞操帯継承の主旨)~同じ系統に属する男女は結婚を許されない。したがって、未亡人は実家へ帰っても結婚する相手がいないので、婚家にとどまり、夫の系統の者に再婚するか、その世話ななるほかはない。ゆえに勢力がある者はこうした婦人と婚し、又は養って、一夫多妻の形をとることがあった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30 より引用…

ここも得意の「おそらくと言う推測」が微妙だが、感情論と言うよりは同系統での結婚を避けた「風習」を理由としているので、説得力はある様な気もする。

さて、ここまでが「前提」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
先の平取町史やらで記載された「番人らの妾」や酷使の問題だが、松浦武四郎ら間接的に聞いたり関わった者ではなく、直接の当事者がどんな記録を残しているのか?知りたくはないか?

「加賀家文書」をご存知だろうか?
実は秋田県公文書館にもそれがあり、筆者も目にした事があった。
これは、中身の8割程度を残した「加賀伝蔵」を中心にして、4代に渡り場所支配人、通辞、番人らを歴任した一族が残した記録で、別海町の「加賀家文書館」で公開されている様だ。
幕末〜明治初期頃の執政者からの通達や支配人らからの報告書(家屋数や人口調査含む)、黒船来航への対応、住民らからの訴えへの対処等々が含まれる。
勿論、昔から知られて各研究で引用されたりしている一級資料。
加賀伝蔵は秋田県八森(八峰町)の出身で、兄らが道東で通詞らをやった為か15歳で北海道へ渡り、飯炊きから下積み、通詞や支配人まで上り詰めた人物で、晩年は引退し八森へ戻り余生を過ごしたと言う。
その記載に関係する地域は常呂周辺から厚岸周辺、国後,択捉までで、主に標津や別海周辺になる…正に幕末の東端の状況が記されている。
別海町では、この加賀家文書の現代語訳版を発行している。
その中で先述の家族関係やらを手持ち資料からピックアップして「糾弾される」側の視点も確認してみようではないか。
主には、どんな施策を行っていたのか?だ。
では…
※註釈
細かい引用文書は「参考文献」を参照下さい。


①場所の支配人・通辞・番人が心得ておく事


一 規則の趣旨を第一に心得る事
一 異国船を見かけたならばすぐに訴え出る事
アイヌの人たちの世話を念入りにし、道理に合わないことが無いようにする事
一 変わった出来事が有ったならばすぐに申し出る事
一 いつも生業を怠りなく一生懸命に心掛ける事
アイヌたちが各自貯えて置く食料や換物の外、油などの非常の際やいつも差し支えがないようにたっぷりと囲んでおく事
一 男女にかかわらず孤児・独り身・病人・障害者には、一際念入りに世話をする事
一 出生・死亡のアイヌの人がいたならばその都度会所へ届ける事但し、出生のときは 米八升、麹二升、死亡のときは 米四升、麹一升を遣わす事
アイヌの人たちへ諸品を売るときは、幕府が定めた値段の通りにする事
アイヌの人たちから軽物や他の産物、使用品等を買入れるときは、幕府が定めた値段通りに買入れる事
アイヌの人たちへ払う木挽き・飯炊き・山仕事、その外の賃金は、幕府の行ってきた通りに払う事
アイヌの人たちへ番家から与える酒や外の物は、幕府の行ってきた通りに与える事
アイヌの若者で独身の者がいないよう、乙名たちへ申し聞かせ、それぞれ縁組をさせる事
一 懐妊の女性アイヌに手荒く働かせたり、人夫等に出したり、重い荷物を背負わせるようなことは決してしてはならない。尤も幼児の養育は念入りににすることを申し付ける事
一 親孝行、関心な心がけや行いの者がいたなら申し出る事
一 病気のアイヌが薬用願を出したならば申し出る事。勿論薬用中は白米飯を与え、番人に度々見廻りさせ、戴いた薬等粗末にならないようにいたす事
一 番人並びにアイヌの変死、急病のときは届ける事
一 御用状の継ぎたては遅れないように心がけ、速達の御用状は番人が付き添い、急ぎの御用状は役アイヌ、その外少しばかりのものを与える事
一 役アイヌの内、病死で退役し、後役を申し付けるときは、乙名・小使たちに選ばせ、依怙贔屓のないよう正しく取り扱う事
一 御制札はいつも大切にし、風雨のときは見廻りをし、万一破損のときはすぐに届ける事
一 新規に漁場を開き、新規に家や蔵を建てるときは届け、総て初めてのことは届け出る事
一 各船の船頭たちはアイヌと交易のようなことをさせてはならないのは勿論アイヌの家へみだりに入らせないよう気を付ける事。但し、船手の者が勝手に山入りしてはならない、近くの番屋へ届けた上、樹木をとらせる事
アイヌの人口のことは五月中に調べ、六月に入ったならば差し出す事
一 旅アイヌの人口のことは、当年から御城下へ書き付けを出すことになったので、毎年アイヌの人口、生死ともその時々に届ける事
一 御詰合様が場所見廻りのときは、小頭役の者に役アイヌをつけて次の番屋へ送り届ける。しかも、止宿される所では夜廻り等までする事
一 年始の挨拶として、メナシ、その外から各番家から小頭の者は役アイヌと同道の上来られる事
一 寒中の挨拶として、メナシから総代として和人ひとり役アイヌひとり別海・幌茂尻・花咲はこれまでの通り役アイヌを連れて来られる事
一 毎年会所へ差し出している男の子たちの給料は、会所から払うので、その番家から払わない事
一 御詰合様見廻りは勿論、御通行の御役人様の往復の引き船を出し、丁寧に取り扱う事 但し、国泰寺様の僧侶の回向も同様の事
御目見アイヌの順番に当たる番家は、前の年から心得の指し図を受ける事 但し、来る未の年は順年でこざいます。

以上の各項目の通り心得ている事 以上

弘化二巳のとし
加賀屋常蔵殿 同徳右衛門 」

現代語訳版第二巻「御手本」より。
年代に少々疑義ある様だが、概ねこれを熟知し任務に当たる事としていた様だ。
一次幕府直轄の後の松前藩領となった頃の話で、直轄時の政策踏襲の様だ。
註釈には、
・各自の備蓄食らの他に根室では11箇所の備蓄蔵が有った様だ。
取引価格は幕府設定の継続した。これは同書や史書にも一覧されている。
不正しない様に記載あるが、運上屋や会所には担当役人が居て、不正の申出が出来るシステムにはなっていた。
事実、根室と釧路では河川の使用権で揉めており、最後は乙名同士が呼ばれそれぞれの言い分を聞く事態にもなっており、代官による裁定が下ったケースは同書や史書にも記載がある。
また、「撫育政策」としての各項目への事例は②以降に記していこう。
薬用願では註釈に仙台藩の医師が別海住居女土人3名への治療を行った事例が付記されている。
人口調査も「旅土人」、移動している者も報告対象となり、人別帳が残される。
御制札とは?、要は「邪宗門や外国人へ従う事は厳罰」等三箇条の「掟」を書いたお触れ「高札」の事。
これらに伴い「不正は役人に届け出る事」はお触れで周知されていた。
一次直轄後、不正と思われる事が減って行くのは、松前藩の「無為に治める」→幕府の「掟厳守」への転換によるとも言えるのではないであろうか?


②伝蔵へ、赤子訓導役申し渡す

根室通辞
伝蔵へ
一 幼児の教え導き役人を申し渡します
この度、幼児の教え導き役に定めた趣意は、アイヌ人不足で不毛の土地でも人数が増へ漁業が年毎に盛んになるよう場所請負人は勿論、アイヌ至るまでかげながら助けにもなるようにして置きたき処、アイヌが増える基は赤娘を産み養育が行き届くことが第一のことであり、その根源は妻がいない男や夫がいない女が無いように、十分なお世話をされれば、自らアイヌが増え、場所の引立てになりますので、この趣旨をよく理解し精勤する事。」

現代語訳版第一巻「雑綴」より。
日付がないが、前後に綴られた物を見る限り、第二次直轄時の事か。
最大の目的は人口減少が元で場所運営が滞る事ではあろうが、子供の養育と特に土地の者同士の結婚斡旋をする事がその任務の記載がある。
現代なら「少子化対策」になるか。
当然、先述の同族以外でなければ結婚出来ない風習とはバッティングしそうだが、その辺は場所を複数受け持っているので仲人的に動いたりも出来そうではある。
あくまでも乙名との調整になるだろうが。
公儀からの通達上はこんな事もやっていた。
これも断片ではあろうが、人口減少は場所運営に差し障り、直近の問題だった事が解るだろう。
又、上記通り、夫がいない女性だけでなく、妻の居ない男性も対象なので妾云々で済む話ではないのも付け加えておく。


③老女ペテレクテへの手当て

「標津住居女アイヌ ヘテレクテ 九十八歳

その方は親子、兄弟、縁者もいなく、孤高のもので難渋しているので、米五斗と古着一枚をくださる。

(安政六年) 六月 」

④ヲン子シトカへの手当米

「ヲンネシトカ

その方は、いつも家族が仲良く、一生懸命働いていると聞いたので、米八斗をくださる。

(安政六年) 未六年 」

③,④共、現代語訳第一巻「雑綴」より。
身寄り無き高齢者や、家族仲良く仕事に励む者への特別手当が支給された事例。
所謂「撫育」の一環だろう。
別に同化政策だけやっていた訳でもない。
努力する者には褒美を出したり、協力し仕事に励めばボーナスが出たりする。
勿論、幕府はある程度相場を決めていた様だが、この他に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
全てが非課税…この特別優遇措置は大きいのではないか?
実は、善蔵も若い頃から行った先々で開梱をしており、巡検使見回りの折に作物献上し、ご褒美が下されていた事も残されている。


⑤申渡

根室・花咲・野付三郡の全てのアイヌへ親しく申し付ける

一、「天子様」を大切になされ、「御制札」の内容並びに「御知らせ」のあの事この事をしっかりと守る事。

一、何事によらず、世の常ならざることをみかけ次第直ぐに申し出る事。

一、御命令が有るまでは、総て前の通りに心得、…
…一同なりわいに精を出し尽くし、親しく、家業が繁盛するようにする事。
追加、取り扱に於いて頭の者を始めとして番人たち、その外の者たちが自分勝手で一同が困ることになれば、なんの遠慮もなく訴え出る事。
(明治五年) 月 日

開拓使

現代語訳第一巻「雑綴」より、開拓使からの申渡。
解説ではこの年、
村名設定や撫育が行われ、年末にオムシャの禁止令が出された。記録上、根室最後のオムシャだそうで。
御制札(高札)も含め、明治に変わっても暫くは、従来の生活が続いた事になる。


⑥老女死亡届

「恐れながら書付を以申しあげます
幌茂尻住居
アイヌ女性 ソロホク
八十三歳

右の者はかなり高齢となり、急病を患いろいろと手当てをしましたが、そのかいもなく、昨夜十一時頃病死とのこと、幌茂尻の番屋守から申し出がありましたので、おそれながらこのことをお届け申し上げます。以上

慶応元年五月十六日 根室場所支配人
善吉 印
正三郎様 」

現代語訳版第三巻「萬覺帳」より。
宛先の「正三郎様」は、仙台藩根室出張陣屋代官の「本多正三郎」か。
各番人から報告が上がり、場所支配人が直接に代官へ報告していたのが解る。
他項でも記載したが、あくまでも場所請負人は統治している函館奉行や各藩から人的資源を借りているに過ぎない。
①の人口調査報告の事例。


⑧標津アイヌメノコビの事

「標津住居
母 マツヌイ
倅 センコムケ
妹 キトエ
同 シュツエ
嫁 メノコビ
家内五人
男一人
女四人

右の芋キトエと嫁のメノコビが以前から不和であったところ、この度マツヌエ・センコムケ・シュツエ等がメナシの方へ伐木のために行ってて留守の最中、特別なもめごとがまずあって、どうしようもなく当座の凌ぎのため、根室に居る親類の女のシトナウカル・ヤカムの方へ行っていた。標津へ帰る時になってふとした出来心で釧路の親類の方へ立ち寄ったとのこと。御答え申し上げておぎすのでお含みになって下さい。

女 キトエ
夫 チヤレ
この二人は別家に居合わせていて、このことを知っているとのこと

女 メノコビ
母テハクエ
右に同じく、知っているとのこと。

この件は厚岸の御用所でお決めになられるとのこと。内々に承っめいることです。」

現代語訳第四巻「大實恵」より。
嫁と小姑の揉め事の模様。
加賀家文書でもさすがにこれ一編のみだそうで。
解説でも「家庭内不和は国や民族を問わず永遠の出来事」と…いや、時代も問わずだろう。
注目すべきは、これら家庭内の事も訴えあらば役所や通辞が関わり、仲裁したりしていたようだと言う事だろう。
より身近な問題でも、相談役としての機能をやらされていた事になるのか。


⑨釧路女アイヌヲシタエが標津へ逃げ帰った一件

「前略〜

釧路場所 女アイヌ ヲシタエ
右 口述

私は釧路場所を逃げ出し、根室場所の内の標津の番家へ参りましたことをお調べ中にございますのでこのことを申し上げます。私は、元標津生まれで、両親共幼少の時に亡くなり、同所のアイヌハツテシユの女房マウンヌルと言う者に養育され、成長の後所々へ縁付いたが、兎に角不幸で嫁いだ先々で夫が病死したり、離縁等をされたり、仕方なく親類たちの厄介になり、漁業をしていたところ、四年前から同所の番家守の世話で乙名力助(筆者註:アイノ名カモイサイケ)の女房になり、睦まじく暮らして居たところ、一昨年十二月中釧路場所内へ厚子用の皮を取りに行って、広場の小屋で休息していたところ、同所の御役人でえる小田井蔵太様が山中御見回りとして御通行になられ、その時役アイヌのメンカクシが付き添われこの広場で捕まり、一通りお調べの上蔵太様が御立ち戻るまでの間、このメンカクシへ御預けなり、足枷を打たれ、会所へ引き連れられてきたところ、御同人様に同所で言い聞かされたのは、米なり酒や又は古着なり亭主なり、何不自由のないようにするので、釧路アイヌだと理解することと言い聞かされ、この故か当分の内は、十日目に玄米四升、また十日目に二升というように同所から貰っていたところ、安政三年の春になり
子供位な、チカフウカヲと言う者をメンカクシの世話で夫婦になった。実は不服であったが、御役人並びにメンカクシの威勢を恐れ、仕方なく夫婦になったことで、このチカフウカヲ亭主にしたからには、もう会所からの手当もないことをメンカクシが言い聞かせ、それ以来夫婦で昆布を取りに各場所へ稼ぎに行っていたところ、この昆布一把を会所に持っていけば、玄米一升と引き換えになり、その時は一把に付米一合の手当て米を貰い受け、漸くその日暮らしをしていた。
そうして居るうちに、私も老年になり、夫のチカフウカヲから昼夜の区別なく交合のことをせがまれ、夫の言うなりになっていたが、今申し上げました通り、夫は若者の盛り、せがまれるままにもなり兼ねたので、時にはつれなく断る事も有った。その時な飯等もくれないで、空腹で過ごすことも度々あって、標津へ帰ればこんなこともないものをと、ふと気付き、その上同所には夫の親類はいるが、釧路には情けをかけてくれる身寄りもいないので、打ち明けて相談する手段もなく、元々標津は出生の村で、両親の墓所も有って、且つ、夫の力助へも久しく会ってなく、かれこれ朝夕苦しく思っていたところ、釧路場所の桂恋へ夫に付き添って、昆布取りの稼ぎに行ってたところ、やはり前に申し上げました通り、交合を毎夜せがまれ、とてもこの上は添え遂げることができなくなったので、仕方なく同所から逃げ出したことでございます。この上どのように言い付けられても釧路へ帰る気は毛頭ございません。
力助並びに親類等を慕って参りましたことですので、私一人を御助け下されると思われ、特別の御慈悲で、右漁業科せきをしたいと思いますので、なにとぞこのことを御許し下さいますようひとえにお願い申し上げます。
右に申し上げました通り少しも相違ございません。 以上

右 ヲシタエ
根室御用所

前書の趣旨、私も参り通訳しましたところ、ひとつひとつ相違ございません。
従って奥夏季に印鑑を押して差出します。 以上
通訳代 伝蔵 印 」

現代語訳第四巻「大實恵」より。
赤裸々である。
前略部分は、ヲシタエと言う女性を標津で預かった事と、それまでの経緯である。
概ねどういう事か?

・ヲシタエは元々身寄りが少ない女性で、夫とも離別を繰り返していた。
・標津の番人の世話で標津の乙名である力助と結婚し仲良く暮らしていた。
・釧路場所へアットゥシの皮を取りに行った所、釧路の役人(小田井)と釧路の乙ナ(メンカクシ)に「捕まる」。釧路側へ入り込んだ事やヲシタエの祖父と母は釧路出身な事が根拠の模様。
乙名に足枷を付けられ釧路へ連れていかれ、釧路アイノであると言い聞かせられ、手当米を充てがわれる。
・釧路乙名の斡旋で子供程に歳が離れた夫と結婚をさせられる。この時点で手当米はカット。
・若い故に昼夜問わず性行為を迫られ、拒むと飯を減らされる。この時は飯一合/日。
・耐えられなくなり、標津場所へ逃げ出す。取調が行われ、標津の役人2名(金井,名取)が立ち会う。標津の支配人は善吉(善蔵の兄)、通辞が善蔵。
・取調の内容を通辞の善蔵が纏めて書簡にして、根室の御用所へ送付した。
こんな感じ。
この時は釧路→仙台藩、標津→会津藩だったのでは?
藩境を超えたが故か?、それだけ人口減少が問題だったのか?、足枷を付けた乙名のやり方も中々エグい。
実はここの解説は簡素で「色々な事が見えてくる」とはあるが、重要な事に触れていないような…
再三我々は指摘してきたが、役人の横暴と言えばそうなるのかも知れないが、ご覧の通り、乙名等、役土人が関与している事だ。
当然なのだ。
請負人、支配人、通辞、番人ら場所の人々は、労力を借りているに過ぎない。
職制上は、藩役人の下に乙名等の役土人が着く。藩役人が動けば役土人も付き添う。
この通り、釧路乙名が介在している。
場所間の行き来はあり、釧路アイノが根室場所で雇われ場合により根室各地に定住したりしている様だ。
この一件、松浦武四郎の地図と合わせ、ヲシタエが逃げた時の滞在地らは特定されている模様。
人口減少は直近の問題でもあったのだろう。


如何だろうか?
これが支配人,通辞や番人が残した記録。
視点が変わると印象も変わろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
簡単に悪逆非道とだけ言うわけにもいかないと。
勿論、これは断片の一つに過ぎない。
相対的に根室や釧路らの記録らとの突き合わせや松浦他の史料との整合性をとる必要はあるだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
歴史に正邪無し。
構造的欠陥を修正しながら今に至る。
現にこれらのような施策が打たれていたのは間違いはないだろう。

加賀家文書は、昭和50年代には史書資料編に掲載されたり、この数値で交換レートや人口を割り出したり利用された史料。
専門家なら知っているであろうし、目にしているだろう事は付記しておく。
こんな記録もあるのだ。
一方的に見ても断言してもいけないと言うことだ。
加賀家文書は千通に及ぶと言う。
まずは手持ちの第一~五巻までサラリと抜粋してみたが、筆者はこの先何巻迄出版されているか?は確認していない。
中々赤裸々で面白い史料だと思う。
興味ある方は御一読を勧める。
幕府や松前藩の施策のイメージが少し変わるかも知れない。







参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第一巻」 別海町 平成13.3.31

「加賀家文書 現代語訳第二巻」 別海町 平成14.3.31

「加賀家文書 現代語訳第三巻」 別海町 平成15.3.31

「加賀家文書 現代語訳第四巻」 別海町 平成16.3.31

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31

平取町史」渡辺茂/河野本道 平取町 昭和49.3.31

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30