https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
SNS上で少し話が出たのでこの際。
鵡川の畠跡。
以前からポロポロと平取は農耕が早いと言ってはきたが、纏めて来なかったので敢えて。
近代以降は敢えてあまり触れてはいないが…
聖地平取と言えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/01/223305
イザベラ・バードの項で触れてはいるし、
旭川の近文を取り上げてもいる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
なら、イザベラ・バードが訪れた前後や近文の状況を含め、特に農耕について手持ちの「平取町史」から纏めてみよう。
但し、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/08/062222
通史編を纏めたのはこんな感じで渡辺茂氏。
少々偏りは見られるが、その印象操作的な部分も一部見えるので、含めてしまおうか。
旭川では添付の様に、それ以前から資源枯渇で狩猟では暮らしていけない事態になっており、農耕化へシフトすべく各政策が打ち出されたが全く進まず、市街化や第七師団の設置らで地上げ屋の横行が起こり、泥沼の土地問題と民族運動への流れが起こったと。
では、平取町では?
そのまで酷い地上げ屋横行の話は無い模様。
重ね合わせれば、この「土地問題」発生が無かった故に、農耕が進んだ側面もあるかも知れない。
・1802(享和元)年…
サルモンベツに畑地ありの記録。
・1838(天保九)年…
サル場所周辺で大豆栽培され夷人食料の他の余剰分は会所で買上げ味噌や醤油を作り、他に粟,稗,青物も少しずつ増える記述有り。
・安政の頃…
平取町一帯で畑地あり、特に幌去は有望視される記述あり。
・1868(明治元)年…
箱館裁判所へ総督赴任。
箱館戦争勃発。
・1869(明治2)年…
開拓使設置され、旧各藩による「諸藩分置」開始。
・1871(明治4)年…
各藩分置の終了と支配権罷免。
一時札幌開拓使庁管轄に。
戸籍法発布…②
・1872(明治5)年…
浦河支庁と沙流出張所(門別村)設置。
開拓使、「地所規則」「北海道土地売貸規則」発布
・1874(明治7)年…
大小区画設定。
※暴風雨災害発生。…⑦
・1876(明治9)年…
戸籍法実施。
※沙流川洪水ら発生。…⑦
・1877(明治10)年…
「北海道地権発行条例」発布。…⑤
・1878(明治11)年…
イザベラ・バード訪問。…④
・1879(明治12)年…
郡区町村編成。
大雪だった。
・1881(明治14)年…
「沙流郡産物表」発行。…⑥
・1882(明治15)年…
三県設置、札幌県へ編入。
段々と移民数が増加、山林らが開放処分(下附)され「拓地殖民の実が上がり」等が出始める。
・1883(明治16)年…
風害,早魃,虫害で不作。
・1885(明治18)年…
農業授産事業開始。…⑧
・1886(明治19)年…
三県廃止し、北海道道庁設置。
さて、細かいところをナンバリングした部分でみていこう。
①より…
仙台藩は元々択捉島守備特命を受けたが、士族救済にならない為に後方基地の土地を開拓使に請い、沙流郡西半分の支配を許された。三好清篤ら146名や後に箱館脱走の幕軍士卒70名が加わる。
だが、仙台藩支配下の施政が行われた様子なく直ぐに罷免された為、三好清篤は浦河支庁へ在勤となり、定着した者の記録が残されていない模様。
また明治9年の洪水で離散しており、実態はよく解っていない様だ。
因みに、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/02/193254
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/20/112451
仙台藩や亘理伊達ら藩士に関しては幾つか怪しい?部分を今迄も取り上げてきている。
全く関係が無かった訳ではない。
それも「聖地」平取に於いてだ。
まぁ直接の関与はまだまだ先の話であるので、その点は加味戴ければ。
②及び⑤より…
戸籍法上は永住人である以上、四民平等平民編入の予定だが、実施は5年遅れる。ここで土地処分を受けなければならなかったが、それまで農耕は老幼婦女子の仕事で生活上依存度は低かった。
又、まだ鹿や熊を狩り、毛皮で「納税」し干肉は食用とすることがまだ継続されていた。
ここでWikiより…
「場所請負制は明治2年9月に開拓使の島義勇によって廃止が明示されたが、場所請負人らの反対もあり同年10月漁場持(ぎょばもち)と名称を変え旧東蝦夷地(太平洋岸および千島)や増毛以北の旧西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)でしばらく存続することとなった。これが原因となり、失望した松浦武四郎は役職を辞した。明治4年12月から5年2月にかけて、北海道の分領支配の廃止にともない漁場持の再任がおこなわれたが、石狩以南の旧分領支配地諸郡には漁場持の設定がされなかった。漁場持ちは明治9年9月の廃止まで存続した。」
明治9〜10年で戸籍や地権への法整備らが定められ、場所請負制が完全に廃止、個別納税へと変更される。
明治政府成立直後に「当面は体制維持」の方針は通達されている。
で、
「北海道地権発行条例」の十六条…
「旧蝦夷人住居地所ハ其種類ヲ問ハス、当分総テ官有地第三種に編入スヘシ。但地方ノ景況ト蝦夷人ノ情態ニ依リ、成規ノ処分ヲ為スコトアルヘシ。」
農耕への切り替えがまだ難しいと踏んだか、
・現居住地は官有地のまま。
・所有権はこの時点では与えず、地租も賦課せず。
・使用は自由で、官が保管責任を負う。
・地方の状況で土地処分の必要が出た、又は住民が土地管理し得る能力が出来た場合は規則により処分(要は土地払い下げ&納税を負う)。
とした。
現状風に言えば、条件付きで所有権は認めず居住権を持つ状態を一度作った様だ。
元々、仙台藩へ払い下げた土地を再接収したイメージだろうか。
確かに、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847
今迄、藩主の土地、その地の住民を「借り受ける」形で場所請負制は成立していた。
住民にしてもその制度下で自由に労働し、居住権を得ていた訳だ。
自ら開梱、又は先祖が開梱した先祖伝来の土地の範囲を死守してきた百姓衆とは土地に対する概念は違うだろう。
ましてや、届出で許しが得られれば他の所領へ移動する事も事実上可能だった事を合わせれば、土地への執着も薄いのは解らぬ訳ではない。
土地そのものの区分も幕府又は藩が決定していたので、最早集団同士で縄張り争いを行う必然すら無い。
土地に縛られた百姓衆とは認識の差は出てはくる。
③及び④より…
副戸長と土人取締役任命…この体制でイザベラ・バードは訪れている。
明治6年で名主ら、幕藩体制下の三役が解任され、新たに副戸長と土人取締役が任命され、二風谷はベンリクゥが土人取締役をやっていたと様だ。
ただ、基本的には土人取締役に丸投げされ、権力が集中していた模様…と。
本文中でもイザベラ・バードの日本紀行を引用し、行政,司法への権限をふるっていた事を述べており、本来沙流出張所へ報告すべき部分もベンリクゥがほぼ決めていたとしている。
今迄も階層社会である事はブログで書いてきたが、各種法整備が終了,施行される迄は、役土人と一般土人の格差そんな体制は維持される。
つまり「平等」などという概念は、それら法整備のお陰とも言えると言わざるを得ない。
⑥より…
紫雲古津村,荷菜摘村,荷菜村,平取村,二風谷村,荷負村,長知内村,幌去村,貫気別村それぞれの産物が表にある。
産品としてはアツシ,椎茸,鹿角や皮が並ぶ。特に鹿は生産収穫に対し販売量が少なく、食用以外に豊かでは無いが、幾許かの現金収入はあった模様。
⑦より…
ここで印象操作的記載を引用しておく。
「しかも明治七年の暴風時、同九年の沙流川洪水等に見まわれて、わずかばかりの耕地すら流失したものもあり、それを補うために出稼ぎを余儀なくしたものもあったらしく、次の戸口動態がそれを物語っている。〜中略(筆者註:戸口動態表)〜明治十四年の戸口は前年に比し〜中略〜を減少して、生活のためにつねに流転しなければならない実情を示している。」
「平取町史」渡辺茂/河野本道 平取町 昭和49.3.31 より引用…
あれ?
中略部分は明治13→14年の人口比較だが、その理由として表の前にあるのはその数年前の災害。
この災害が理由なのであれば、明治9〜10年段階で人口は激減しているハズでは?
仮に人口確認が出来ていないとしても、主な理由に掲げるのは如何なものか?
まして「あったらしく」→予想に基づく。
こんな「時空のシャッフル」があちこちにあるのだ。
結局、これら史書の特徴を読み解くには、一度時系列に並べ直し精査する必要が出てくる。
前項に上げた旧旭川市史や新北海道史でも同様の特徴。
「時空のシャッフル」の事例として挙げておく。
因みに、上記引用は通史の部分。
「農業」の部分には明治13~14年にあったのは蝗害(イナゴによる虫害)で、村民皆で駆除に当ったが防ぎ切れなかったと編者自ら記述する。転居の話とは辻褄が合わないのだ。
⑧より…
旭川同様、資源枯渇が酷くなり飢餓化する者が出てきた為、明治17年札幌県では応急処置として金穀貸付又は給与を行う。
恒久措置として、
「前略(筆者註:予算処置の説明)〜十ヵ年を期して農事の授産事業が行われ、まず沙流・勇払二郡のアイヌ住民(筆者註:後の旧土人保護法対象者の事であろう)二百三十九戸からはじめることになったのである。これは明治十八年から同二十七年までの十年間に、札幌県下の
アイヌ総戸数二千五百九十戸のうち一ヶ年二百五十九戸宛農業授産を行うというものである。開墾地はそれぞれアイヌの居住地近傍の差支えない場所を選び、一戸一町歩以上を無代価で貸与し、初年度にニ段部以上を墾了させ、墾成地は実施点検の上無代価で下附、十五ヶ年間免租とするものであった。」
「平取町史」渡辺茂/河野本道 平取町 昭和49.3.31 より引用…
初年度に限り、農具と種子を給与。
⑨より…
この辺で旧旭川市史と接続戴ければ解るだろう。
三県体制で施行され始めた農業授産事業は一度北海道庁設置段階で反故にされ、次の振興策まで紆余曲折した様と重なる。
さて、これらより後はどうなるのか?
あの、近文に土地の人々を集め「人工的に古譚」に移住する様に説得した人物。
元々は初代開拓使判官の島義勇に続き札幌本府建設をした人物である。
道庁直轄とする事で組織のスリム化を図った訳だ。
・同1886(明治19)年…
沙流川東岸高台の住民を西岸紫雲古津と荷菜のサルパへ移動。
授産事業は継続。
・1890(明治23)年…
授産事業立ち切れ。財政上の問題。
さて、では授産事業の末どうなったのか?
明治30年頃迄の事が明治31年発行の「北海道殖民状況報文」に記載されている。
・荷菜摘村
上記移住先が不便だったので再び戻る。
一戸平均で1.5町歩、馬は各戸1~2当所有。
阿波,淡路からの本州移住者で自作は僅かに一戸、他は旧土人給与地らの小作。
・紫雲古津村
移住先で一戸平均2町歩に達する。
半分は自家食料、半分は大豆,小豆を販売用で栽培。
鍋沢サンテアンに至っては6町歩耕作。
本州移住者の多くは小作。
・荷菜村
上記移住まま開墾し、1~2町歩耕作。
中には6~7町歩に達する猛者も居た。
明治3年に仙台藩士ニ戸移住の話はあるが去り、兵庫からの移住者が原野散在で主に小作をしていた。
・平取村
聖地と言われ農耕が古書記載されたが、この時代は平均1.5町歩、多い者で5~6町歩。
開拓使時代に男子初農耕者である平村ホイキネ,オダキリ兄弟、酋長平村イタトキカアイヌが率先して農耕に精進し、周囲を巻き込み耕地を増やした模様。
・二風谷村
一戸平均2町歩、多い者は6~7町歩。
馬もほぼ所有。
本州移住者はほぼ小作。
・荷負村
平均1~2町歩。馬のみならず豚を飼育する者有り。夏に漁夫出稼ぎ、冬は山猟多し。
本州移住者はほぼ小作。
・貫気別村
あまり農耕に積極的ではなく、一戸1町歩前後。女性耕作が主で、男性は出稼ぎか山猟が多い。
本州移住者は明治28年の八田牧場以降だが、明治30年位には一戸平均10町歩に達し豊かに暮す。
・長知内村
荷負村に近い。
・幌去村
授産事業時、オオコツサナイから長知内ホエボエへ移住させる。
幌去村内では平均1町歩程度、2~3町歩耕作する者は僅か2~3戸。
以上…
つか、本州からの移住者に対して、如何に農業をやっていたか解るだろう。
この後明治31年に大水害らが襲う。
再び再開墾らにあたる。
この先はむしろ本州からの移住者が開墾を行う記述が多くなる。
ここ平取町では、授産事業開始時点の土地下附条件にかなり近い又はクリアする者がかなり多かった様だ。
ここが近文との違いかも知れず、むしろ阻害したのは天災か。
編者は迫害云々を散りばめてはいるが、むしろ、ここの人々は開拓者精神を発揮していた様が見えよう。
随分イメージが違うのではないであろうか?
参考文献: