津軽,秋田に残る金石造文化財…紀年遺物に刻まれた安東氏の宗教観

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/02/183834

安東氏をもう少し掘り下げてみよう。

宗教についてである。

関連項はこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435

何故か「生きていた証」、竈の話だったりする。

 

さて、本ブログでもポツポツ秋田の「男鹿」は登場する。

Wikipediaの「赤神神社」より…

「一方、縁起によると、860年(貞観2年)、慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院(永禅坊とも)を創建したのに始まり、1216年(建保4年)、比叡山の山王七社を勧請して造営されたが、うち2社が廃れたため五社堂となったとする。

中世を通じて橘氏、安東氏の崇敬を受け、近世にはいると佐竹氏により領内12社のうちに選ばれ、篤く信仰された。現在見られる五社堂は1710年(宝永7年)建立とされている。明治以降、従来の神仏習合から神社として独立し、1998年(平成10年)から2002年(平成14年)まで大修理が行われた。」

で、「なまはげ館」の展示より。

これが江戸期の男鹿の南磯「門前」の姿。

まぁ伝説の「武帝の鬼」「徐福来訪」は置いといても、古代の「慈覚大師円仁」の赤神山日積寺永禅院に始まり、江戸期には神社仏閣修験道場が立ち並ぶ「信仰の山」だった。

これは北磯もで、北浦の「北浦日枝神社(元山王社)」の棟札に「安東兼季」の名があった事は、関連項に記述している。

 

さてでは、これらを前提として、地元の研究での安東氏の宗教的側面をみてみよう。

 

まずはWikipedia「安東氏」より。

「『日蓮聖人遺文』の「種種御振舞御書」には建治元年(1275年)のこととして「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。これを、真言宗に改宗したためアイヌに殺害されたとする意見[18] もあるが〜後略」

この記述では、安東氏は元々、日蓮宗なりを真言宗へと改宗したと…

 

では、実際はどうなのか?

武蔵国秩父方面に源をもち奥大道に沿って津軽地方に伝わった板碑は、おそらく鎌倉武士団が持ち込んだ信仰形態と考えられます。県内における板碑の分布は南部地方に少なく、大部分は津軽地方にあります。南部地方には十和田市むつ市東通村(下北郡)(注4)に各一基、合計三基確認されているだけです。

これに対し津軽地方には内陸部に一九一基、十三湖周辺から鰺ヶ沢・深浦(ともに西津軽郡)方面、中世に「西ノ浜」と呼ばれた日本海岸には九ニ基、陸奥湾岸「外ヶ浜」(青森市域)にニ基、合計ニ八五基が現存します。」

「板碑が造立された年代ですが、弘前市鬼沢二千刈にある文永四年(一ニ六七)が最も古く、新しい方では応永年間(一三九四〜一四ニ八)までしか下りません。関東地方など他の地域に比べると板碑造立の終了は早いのです(注5)。」

「次に板碑の造立に関係した豪族を推測すると、三ツ目内(大鰐町)から岩館にかけて分布する板碑は曽我氏、乳井周辺が福王寺、目屋の国吉(弘前市)は工藤右衛門尉貞祐法師、中別所(弘前市)周辺の「高椙郷」は源光氏に関連する人々、出自は不明ですが小友館(弘前市)は三枝氏か中世のある時期に拠点とし板碑を造立したと考えられます。それでは西ノ浜は? もうご理解いただいていると思いますが〜後略」

「『安藤宗季譲状』(史料一)や『諏訪大明神円詞』は折曽の関一帯に安藤氏の所領があったことを記しています。樹齢七〇〇年といわれる関の甕杉の下には四ニ基の板碑が、〜中略〜現在、甕杉の下には安藤氏の本姓である「安倍」の文字を刻む板碑がニ基残っています。写真1の板碑には「安倍是阿」「円阿」という阿弥号が刻まれており、施主が父と母の逆修(注6)のため暦応三年(一三四〇)に造立したことが碑面からわかります。~中略〜もう一基(写真2)は今述べた板碑の右側にあります。貞和ニ年(一三四六)「安倍季□」が自らの現世の幸福と来世の安穏を祈って造立したもので、これも逆修の板碑です。碑面からは「安倍季」まではなんとか読めるのですが、その下の一字が読めません。」

「以上、安藤氏の所領の一つ折曽の関には板碑が多く、その中には「安倍」の二字を刻む板碑がニ基あること、その他の板碑も様式に共通点があり、安藤氏一族や家臣たちが造立したと考えることが可能です。~中略〜安藤氏は時宗の信徒であることは、すでに「是阿」「円阿」の阿称号でお気づきのことと思いますが、北金ケ沢には「光阿」という阿称号が刻まれた板碑が三基(注11)あるほか、「惠曽右衛門」という人物名が読み取れる板碑もあります。安藤氏が蝦夷の沙汰をしていただけに、「エゾエモン」と読める人物には関心をもたずにはいられません。そしてこの碑は今北海道を望む高地に移され残っているのです。」

 

「安藤氏と金石造文化財」 佐藤仁  『中世十三湊の世界-よみがえる北の港湾都市-』 青森県市浦村/千田嘉博 新人物往来社  2004.9.30 より引用…

 

「(筆者註:十三湖北の相内地区にある)蓮華庵の境内には中世の供養塔である板碑5基が残されており、そのうち延文ニ年(1357)銘を持つ板碑一基、さらに永和の年号(1375~1378)とみられる板碑一基が確認されています。板碑には時衆(時宗信者)と熊野信仰に関係が深いとされています。中世にこの地を支配した豪族安藤氏は時衆であり、阿弥号をもつ一族の名が『時衆過去帳』にも記されています。」

十三湖北岸、山王坊川が流れる沢筋は「山王沢」お呼ばれ、遺跡はこの山間の奥まった谷間に立地しています。現在は山林に囲まれた日吉神社の境内地となっており、一帯は「山王坊」ととも呼ばれています。」

「また、①安藤氏に関する日吉神社の地であること、②『十三往来』に記載される阿吽寺の地であること、③南部氏による焼き討ちきあった地であること、といった伝承が語られてきました。こうしたことを裏付けるように、かつて山王沢の開田や用水路の開削作業によって、南北朝室町時代前期に相当する五輪塔・宝篋印塔・板碑等の石造物が多く出土しており、これらは近隣の相内集落にある蓮華庵とその境内に大切に保管されてきました。」

「(筆者註:発掘により)最奥にある丘陵中腹には二つの造成平坦面があります。〜中略〜一片6mの方形配石墓を特徴とする奥院が存在したことが分かりました。〜中略〜奥院前方には鳥居、続いて下方の造成平坦面には弊・拝殿(SB09)と付属舎(SB10)、続く緩斜面には大石段(石組階段)を一直線上に配置させていることが判明しました。坂田泉氏によれば、真言宗においては先祖の追善供養や法会を重要視することから、奥院を建設して神聖な区域としおり、そこに宝塔や五輪塔を安置するが、これは高野山から始まり、寺院に限らず日吉大社日光東照宮のような神社にも見ることができるそうです。この奥院周辺から出土した陶磁器の年代から、奥院が14世紀中頃から15世紀中頃(南北朝・室町前期)に機能していたものと考えます。」

「山王坊川西岸の最も開けた平坦地では南から順に拝殿(SB06)、渡廊、舞台(SB05)・中門・瑞垣・本殿跡(神社跡)として復元可能な礎石建物跡が発見されました〜中略〜拝殿(SB06)は方三間に廻縁を持ち、浄土教系仏堂における来迎柱の礎石が存在することから(第7図)、元々は仏堂であった可能性が高いそうです(これを旧仏堂と呼んでおきます)。また、この旧仏堂こそ『十三往来』『十三湊新城記』にみられる阿吽寺(真言宗)であり、最奥にある奥院とともに山王坊初期の遺構である可能性が高いとの見解を示しています。〜中略〜すなわち山王坊成立当初は、真言宗寺院が深く関わっていたのではないかと考えられるのです。その後、南部氏に敗れた安藤氏が北海道へ退去した後(1432年)、再び十三湊へ帰還し再起を図ることとなった。その際、天台宗日吉大社を新たに勧進し、旧仏堂は拝殿となって生まれ変わり、新たに舞台(SB05)・中門・瑞垣・本殿(SB04)を増築し、神社境内として再整備を図ったのではないかと見解を述べております。」

「北のまほろば奥津軽  安藤の郷歴史探訪ガイドブック」  安藤の郷応援隊  五所川原市教育委員会  2017.5.1

 

と、言う訳で、金石造文化財についての研究成果を中心に、市浦村の発掘調査結果で補足してみた。

他の事項も含めて纏めてみよう。

津軽の板碑,五輪塔,宝篋印塔らは関西型で、特に板碑は関東型は一基しか検出していない模様、糠部側はかなり薄くなる。

②山王坊の奥院が機能したのは14世紀(1300年代)中頃〜15世紀(1400年代)中頃で、十三湊隆盛期や南部侵攻による十三湊廃絶期と概ね合致。

③板碑の紀年とも概ね合致はする。

但し、14世紀(1300年代)中頃の紀年の板碑や時衆過去帳によりこの時期の安東氏は時宗門徒であろう事が概ね解っている。

④中世成立とされる「十三往来」にある津波は十三湊遺跡の発掘調査では検出されておらず、津波により一度壊滅した話は強く疑問視されている。

古書をそのまま鵜呑みには出来ないのは明らかだろう。

⑤同時に旧仏堂が浄土教系の影響を持つなら、むしろ浄土宗系の寺院だったのではないか?…これは同時代に安東氏が時衆だった事とは一致し、後に勧進したとする日吉神社比叡山系である事や北浦の「北浦日枝神社(元山王社)」の棟札とは合致してくる。

まだ詳しくは学べていないが、一遍やその後に時衆を再統合した他阿は「時宗」という宗門とは名乗っておらず、どうも浄土宗一派的に活動していたようだが。

時宗とされたのは江戸期に幕府都合による?…この辺は後の宿題となろう。

また、後の時代はどうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/110811

1500年代ではやはり浄土宗系、浄土真宗石山本願寺が湊安東氏と檜山安東氏のイザコザの仲介をしているのは同時代文書にある事も記しておく。

何気に「南無阿弥陀仏」だったりする。

⑥「安藤氏と金石造文化財」において、南北朝期の紀年がどうかまでは記載がないので解らないが、同時代に一気に作られ始めた秋田南秋地区の板碑は「北朝元号」で統一され、北朝方の勢力圏だったと考えられる。

これには古書にある「湯川湊」に比定される「洲崎遺跡」らを含む。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026

秋田では、南朝元号湯沢市ら山側の一部に限定される。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045

この辺は湊安東氏の十三湊からの秋田南下の時期がどうか?に絡むので、これも宿題。

真言宗の寺院が同時代に北東北にあったのか?

あるなら、日本海ルートと太平洋ルート(奥大道ルート)のどちらから伝わったのか?

先述通り、板碑や五輪塔,宝篋印塔は関西型で、鎌倉直結の関東型は殆どない。

古い時代から存続した寺院は慈覚大師円仁の創建伝承はあるが…

 

「日吉の神が山王と呼ばれたのは、中国の天台山国清寺が山王元弼真君を護法の神として祀っていたことによるとされる。日吉(日枝)神社はこのように天台宗の守り神として、天台宗とくっついて全国的に広かっていったものと考えられる。男鹿山の本山日積寺永禅院、真山の遍照院光飯寺は古くは天台宗の山伏(修験)が支配した山であった。それが南北朝時代の終わり頃、十四世紀末になって真言宗に転宗したのである。真山の八王子に日枝神社天台宗の光飯寺があり、北浦には日枝神社と、古くは天台宗ではなかったかと思われる瑞光寺がペアになって、少なくとも南北朝時代にはあったようである。日枝神社はこのほか八幡神、白山神が深くかかわっていた。」

「北浦誌」  磯村朝次郎  秋田文化出版  平成28.7.16  より引用… 

 

十四世紀(1300年代)末の突然の転宗…

これが男鹿で起こったとされる事の様だ。

修験道場の突然の掌返し。

案外、安東氏一族の争い事は、こんな宗教上の問題も絡むのか?

寺院の転宗はポツポツある。

仮に総本山の記録に記載が出たとしても、それは転宗後だろう。

寺伝が火災らで失われたり、世襲の跡継ぎ問題らで切れた場合は、再興段階からしか解らなくなる事はあるだろう。

正直、筆者があまり宗教に触れたくないのは、こんな風に訳が解らない事が出てくるから。

江戸期の宗門ままで中世も営まれたか?は解らない事が出てくる。

⑧貞和ニ年(一三四六)「安倍季□」について、文中では「津軽大乱」での「安藤季久」「安藤季長」の区別がついたのでは?としている。

この□が久か長かで、西ノ浜と外ヶ浜の関係が解った可能性がある訳だ。

板碑の所在地で特定していける。

この辺が紀年遺物の破壊力でもある。

 

まぁ、第一段階故にここまで。

「安藤氏と金石造文化財」でも佐藤氏は、局部で見ずに広域でみるべきと指摘している。

いずれにしても「安東氏」が謎だらけなのは解って戴けただろう。

他の御家人出身の土豪とは違い、在地土豪である特異性、且つ、歴史上登場する時は結構派手な登場のし方をする。

 

おっと、一点付け加える。

「安藤氏と金石造文化財」においても北条得宗家に関係し、現在は弘前市にある「長勝寺の梵鐘」の話は語られている。

1306年の紀年で、青森最古の金工品。

北条時頼の回国伝説に纏わる「唐糸」と言う女性の話。

時頼が大事にした「唐糸」が正妻からの仕打ちで津軽に渡る。

長い月日の後に時頼がこの地を訪れるが、「唐糸」は年老いた姿を見せられず、会いたい気持ちを飲み込み入水。

時頼は「唐糸」の冥福を祈り墓のそばに、途絶えていた平等教陣を再興し「護国寺」と改め梵鐘を寄進した…

で、梵鐘には当時の執権北条貞時法名「崇演」の他に、銘文最後に「安倍季盛」とあり、これが貞時から貞を貰い「安藤貞季」と改名したとする説。

当然、大檀那は北条貞時となる。

実はこの時、既に安東氏の一族内の争いは表面化しつつあり、得宗家に従う津軽内の御家人達に不協和音が出ていたと指摘している。

安東氏宗家はこの時藤崎にあり徐々に十三湊へ軸足を移しつつあった様で、一族を治めたい安東宗家と周辺不協和音を払拭したい北条得宗家の利害が一致したので執権を大檀那として梵鐘寄進を行ったのではないかとしている。

板碑はここ藤崎や周辺の曽我氏所領から川沿い十三湖を経て西ノ浜方面に板碑群を作っている。

この辺の曽我氏らは、南部氏ら建武新政軍と最後まで戦ったとされ、北条得宗家と結び付きは強かった様だ。

 

以上の通り。

これはこれでかなり深そうな感じである。

古書と金石造文化財とも微妙にズレる感もある。

さて、真実は如何に…

 

 

 

参考文献:

「安藤氏と金石造文化財」 佐藤仁  『中世十三湊の世界-よみがえる北の港湾都市-』 青森県市浦村/千田嘉博  新人物往来社  2004.9.30

 

「北のまほろば奥津軽  安藤の郷歴史探訪ガイドブック」  安藤の郷応援隊  五所川原市教育委員会  2017.5.1

 

「北浦誌」  磯村朝次郎  秋田文化出版  平成28.7.16