北海道と南部方面,中央政権との交流、そして安東氏vs南部氏の抗争しなければならぬ理由?…「尾駮の牧」研究から検証する為の備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012

「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…

「尾駮の駒・牧の背景を探る」からもう少し取り上げてみよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047

「末期古墳,蕨手刀,須恵器が示すもの…その物流ルートと人的,文化的移動ルート」…

鈴木琢也氏によれば、擦文文化(奈良・平安)期の遺跡の動向では、交易的側面は日本海側、人的文化的な側面では太平洋側の影響が濃いとの指摘。

どうしても秋田城→秋田湊,十三湊のイメージで考えればそちらのパイプが図太いと考えがちだが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

「北海道の対岸の状況はどうだったのか?…野辺地町史に見える古代~中世の文化到達の片鱗」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…

野辺地の動向や海流を考慮すれば、

余市,石狩低地→日本海側…

・道南→陸奥湾の8の字海流を使い外ヶ浜や野辺地…

胆振,日高→太平洋側…

と、なってきそうだ。

なら、中世はどうか?、且つ南部氏側の資料に交流を示すものは無いか?

それが一部同書にあるので、備忘録として見てみようではないか。

何故その辺に拘るか?

前項に書いた様に、その時代から奥入瀬川以北のコントロールをある程度秋田城側が行っていたら?

更に…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

中世墓の傾向を見る限り、日本海側同士と太平洋側同士で土葬∶火葬比率がトレースされていそう→鈴木氏の指摘通り、人的,文化的交流は中世も維持されていたのではないのか?…と考える事が出来そうだ、と考えられるから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908

「「通商の民」に不足する物、続編…南部信直公が教えてくれた「蝦夷船ドック」」…

現実的に我々も一通、小型船造船についてのそれを見つけており、それは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108

「時系列上の矛盾…白老の蝦夷の人々が逃げる前の姿の一端」…

白老町「アヨロ遺跡」出土の和船である程度合致出来そうである事から。

 

前置きが長くなったので、先へ進めよう。

同書の「建武期の糠部と尾駮の牧」 伊藤一允氏の寄稿より。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

「南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4」…

時は建武政権陸奥将軍府北畠顕家陸奥国府下向に伴い帯同した一人が「南部師行」はこの項でも取り上げ済。

この時築城されたのが八戸市「根城」で、北奥の拠点と言う意味で北畠顕家が名付けた伝承と八戸市史にある。

南部師行が任ぜれた「糠部郡奉行」の仕事は糠部,比内,鹿角,久慈,閉伊に於いて、

①糠部の軍事的制圧と北条氏得宗領の残党追討

陸奥将軍府発行の給付状に沿って、新たな領主への受け渡しや受取報告

③牧らで行われた不法行為らに対する治安維持

が主なもの。

ここで③について、新撰八戸市史によると中世陸奥馬の馬畜方法は「鬼柳文書」や後代戦国期の気仙郡浜田の事例から、

「前略〜年に一度野馬取りがおこなわれ、観音社において捕獲した馬の祓いがおこなわれていたこと(「末崎村誌」)などの事例から、野馬追いの形態をとっていたと考えられる。牧の経営は粗放的なものであり、野馬は追い込みによって捕らえられていたのであろう。その上で、牧ごとの「焼印」と、また右耳に切り込みを入れる「印」が付けられた。鎌倉や京都において羨望の的とされた「戸立」や「糠部の駿馬」というブランドは、こうした野馬取りの牧の世界の中で生み出されていたのである。」

とあり、このやり方なら、

・傾斜を含むかなり広大な土地…

・餌のイネ科植物が育つ条件がある…

・更に監視が効く場所…

・「馬頭観音」…寺社…

が、必要となる。

というのも、元々この陸奥馬とは…

奥州藤原氏の役割だった朝廷に対する「貢馬」の儀礼に使われる。

鎌倉幕府でもその役割は継承され、所領に牧を持つ御家人が幕府へ複数の貢馬を調進、献上用の馬を選定し、鎌倉殿による貢馬御覧の儀の後に六波羅探題へ送られ、在京御家人が調進した馬具で飾り帝の御前へ…

中世でこんな意味を持つ。

出荷段階でお祓いら祭祀を行う迄がSETになろう。

で、野生に近い状態で育てられるので、簡単には懐かないが、逞しく鍛えられた馬が出来た…と言う事か。

陸奥はそんな地が確保可能だったので後に黒ぼく土が広がった。

それと同等以上を作ろうとしたら?

結構条件は厳しいかも…東北の他なら北海道や九州を除けば。

①,②に関しては、領地の安堵状、給付状、降人(投降者)報告らに記述が残る。

どちらかと言えば、津軽側で得宗領側の抵抗が強く伝承されるので津軽側寄りの解釈が多いと伊藤氏は指摘するが、糠部側で抵抗が無かった訳ではない。

ここで一つ問題になるのが、1334(建武元)年の「津軽降人交名注進状」との事。

これは建武政権軍に降伏した給人(領主)リストだが、津軽とはあるがこの中に糠部の領主も含まれるのではないか?と伊藤氏は記述する。

理由はこのリストの降人数十人の中で、17人が「安藤又太郎」に預けられているとしている。

この安藤又太郎は鎌倉幕府を揺るがしたとされる「津軽大乱」時に鎌倉幕府から代官職を許された「安藤五郎三郎季久」が安東氏惣領となる時に「安藤又太郎宗季」と名乗り変えたとしており、建武政権軍北進時点で嫡子「安藤五郎太郎高季」へ、

津軽鼻和郡…絹家嶋尻引郷・片野辺地

・糠部郡…宇曽利郷・中浜御牧・湊

・同…西浜

を安堵した「御教書」が発行されているとしている。

当時も西浜は津軽半島西側、糠部のハズはないのだが、少なくとも後も十三湊含むこの周辺を拠点としている事実があるので、西浜には間違いないだろう。

宇曽利郷には「たや(田谷)、たなふ(田名部)、あんとのうら(安渡浦)」が記述され、現在のむつ市東通村下北半島北部を示すのだろう。

不明なのは中浜御牧。

伊藤氏はここが「尾駮の牧」ではないか?と指摘する。

これらを合わせると、安東宗季,高季親子が代官として治めたのは津軽半島西側海岸線〜岩木山を超え弘前手前と下北半島北端〜六ヶ所村周辺迄と伊藤氏は解釈する。

これなら日本海ルートの本州側北端と、道東,道南とアクセス可能な地域をほぼ押さえていた事になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/05/204149

「対岸の状況はどうだったのか-3…東通村尻屋崎「浜尻屋貝塚遺跡」に眠る安東氏の痕跡、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/09/211342

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがき…「浜尻屋貝塚遺跡」に暮した人々は?を「東通村史」に学ぶ」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507

「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…

東通村にある安東氏の痕跡についてはこれまでも報告してきたし、浜尻屋貝塚の人々も、文字を書き、茶を嗜む人々であったのは間違いない。

更にそれだけではなく、鎌倉〜南北朝期に於いては、平安で「をふちのこま」と詠われた駮馬の管理迄していた事になる。

伊藤氏は解釈を拡大して、上記御教書にある湊は八戸と仮説し、その根拠を平安末の「安倍富忠」の統治範囲を想定する。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213

「「防御性集落」とは?…道南〜北東北のその時代を学んでみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257

「東北最古の「金銀銅」処理の痕跡…そして、何故その立証が困難なのか?」…

金銀銅の精錬や製鉄、尾駮の牧の運営らを手掛けて、「前九年合戦」時に惣領「安倍頼時」に致命傷を負わせて嫡子「安倍貞任」に殲滅戦を受けたとされる人物の統治範囲迄。

この内、九戸四門地域は糠部郡奉行に明け渡し、代わりに津軽鼻和郡を…

これがどうも伊藤氏の想定らしい。

前提に書いた様に、米代川流域〜奥入瀬川北岸迄のルートを想定すれば統治者としては別として、住む民衆レベルでは文化的には近いのかも知れない。

これについては、同書で入間田宣夫氏が「「尾駮牧」「糠部駮馬」をめぐる人・物・情報の交流について」で、興味深い記述をしている。

「七時雨峠のルートを越えて平泉や陸奥国府、さらには京都・鎌倉方面を目指した品目の最たるものが、糠部駿馬だっだことは、いうまでもありません。

だが、そればかりではない。驚羽・水約皮ほか、夷が島方面からの貢上物が、海峡を渡って、奥大道を経て、峠を越えて行きました。希婦細布なる鹿角方面の特産物も、奥大道を経て、南下していきました。

それらの品目は、いずれも、政治的な色合いの濃厚な貢上物でありました。そのうえに、長遠な峠道を越えてゆくことが可能な馬疋ないしは軽物ばかりでありました。民間レベルにおける通常一般の交易物とは性格を異にする、すなわち採算ベースを顧慮する必要がない特殊な貢納物ばかりでありました。そこのところに、注意することが肝要であります。」

「それにたいして、すなわち七時雨峠越えの政治的なルートに対して、民間レベルの交易路は、海上のルートを経由し日本国側に繋がっていました。 

たとえば、珠洲系須恵が、北陸方面から北緯四〇度線を越えて、日本海を経由して、津軽に運ばれてきました。あわせて、白磁ほかの輸入陶磁器も将来されました。八重樫忠郎二〇一六によって指摘されている通りです(第5図)。

北奥・夷が島方面、すなわち北方世界には、津軽発の伝統的な物流のルートが張り巡らされていました。五所川原産須恵器の事例に確かめられている通りです。

その既存の物流のルートに便乗することによって、日本海経由の陶磁器類は、津軽から、比内・鹿角方面へ、糠部方面へ、さらには夷が島方面へ運ばれていくことにもなりました。

ふり返ってみれば、遠賀川系土器によって象徴される稲作文化もまた、七時雨越えのルートにはあらず、日本海を経由して、一足飛びに、津軽に到来し、そのうえで、比内・鹿角・糠部方面にまで拡散してきたのでありました。

同じく、鎌倉発の板碑文化にしても、一足飛びに、津軽に到来して、比内・鹿角・糠部方面にまで拡散してきたのでありました。

その一方で、平泉方面に到来した板碑文化は、北上平野を北上して、岩手郡にまで拡散したものの、七時雨峠を越えることはできなかったのです。

それをもってしても、民間レベルにおける陸上の物流を分断する北緯四〇度線のバリアとしての七時雨峠の存在感は鎌倉期に至るも、解消されることがなかった。そのことが明らかであります。

ただし、日本海側の交易路ということでは、津軽を経由しないで、米代川を遡って、直接に、比内・鹿角・糠部方面に到達するルートも、あったらしい。

 米代川ばかりではありません。雄物川ほかを遡り、脊梁山脈の峠越しに陸奥側に到達するルートも、早くから開かれていて、民間レベルの交易に利用されていたようです。八重樫さんの図によっても、それが明らかですね。

あわせて、それらの脊梁山脈の峠越しのルートは、多賀城や胆沢城の政治的影響力が七時雨峠越しに延びてくるよりも早くに、秋田城や払田柵の政治的影響力が北奥方面に、さらには岩手・紫波郡のあたりにまで伸びてきていた素地を提供していたようです。」

…というように、公の貢物や軽物、自ら歩く事が出来る「馬」の様な物は、八幡平の七時雨山の峠を越す事は可能ではあったが、民間ベースの交流ルート,物流ルートはむしろ米代川→十和田→奥入瀬川→糠部…こんなルートだろうとしている。

これは、昨今我々も言っている事に近い見解の様だ。

それはそうだ。

何でもかんでも陸路を使う必要は無い。

陶磁器の様な重量物なら、水運の方が確実且つ野盗に襲われる心配も減る。

製鉄や須恵器窯の伝播の延長線上で考えねば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

「改めて「古代製鉄」を学ぶ…岩手県立博物館「古・岩手のクロガネ」に見る東北の古代製鉄炉、そして「北海道の矛盾」」…

北上市以北の古代製鉄空白地帯は生まれない。

そして、その民間ベースの交流ルートは、奥州藤原氏蝦夷管領としての安東氏によって北海道側へも伸びていたのは言うまでもない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537

「時系列上の矛盾、厚真町⑤…「オニキシベ2遺跡」に中世遺構はあるのか?」…

筆者的には、墓のsizeらに引っかかりはあるが、八戸市史上ではオニキシベ2遺跡の漆器塗膜のスタンプ紋様は、

鎌倉市「佐助ヶ谷遺跡」,松島町「瑞巌寺遺跡」と共通点を持ち、得宗家や得宗領代官として海運を担う安東氏との関係を指摘している。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

この辺は厚真でご教示受けた内容とはリンクするし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」…

牡鹿半島周辺には、安東(藤)一族の話は伝わる。

中央政権と北海道との繋がりは、日本海ルートだけではなく、下北半島側の太平洋ルートでも広げられていた可能性がある訳だ。

 

さて、主題にあるもう一点。

ここが大問題なのだろう。

先の安東宗季,高季親子へ陸奥将軍府、ひいては建武政権に出した安堵状では「蝦夷沙汰」には一切触れていない。

安堵された所領が伊藤氏が想定した安倍富忠とした場合、九戸四門地域は安堵されず南部氏らに取り上げられ、代わりに鼻和郡を代替した事になる。

陸路でのルートは遮断されるし、太平洋側は湊以南と隔絶される。

むしろ内陸側と取り換えた事に。

これについては考え方は色々あるかと思う。

藤崎に近い地域を手に入れたとすれば、安倍姓安東氏発祥地に近い地域を手に入れた事にもなる。

鎌倉と繋ぐ太平洋ルートを考慮すれば不利でもある。

ただ、どちらにしても「蝦夷沙汰」を取り上げられ海運を自由に行えなくなれば、ドル箱を取り上げられる事になる。

当然、糠部側でそれを行使するのは誰になるか?

「糠部郡奉行」ではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

「南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4」…

再び。

陸奥将軍府の目論見が、糠部の馬や周辺の金銀銅、北方利権迄建武政権、後の吉野朝に上納させる気であれば、安東氏としては納得出来ないだろう。

伊藤氏はその辺を指摘する。

元々、東北の鎌倉御家人衆は、足利尊氏建武政権から離脱した段階では日和見主義。

大体、鎌倉倒幕の流れになる前から、東北に得ている飛び地に移り、自分の所領を確保しようとした節すらある。

さて、得宗領代官として戦うではなく建武政権側についた安東氏宗家、この後どうしたか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/233328

「では、安倍姓安東氏はどんな人達?…秋田家家系図を追う」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045

「十三湊安東氏は何時から秋田に?…宗家「下国(檜山)安東氏」より難解な「上国(湊)安東氏」」…

北朝方の足利尊氏の呼び掛けに呼応し、建武政権から寝返り所領と「蝦夷沙汰」を安堵させる。

又、吉野朝側として赴任している葉室氏を討ち取ったのは十三湊から南下した安東氏説…

この後、十三湊を拠点とした安東氏は隆盛を極め、南朝方として戦った南部氏は最後に降伏する。

南部氏にしたら建武政権から得た「蝦夷沙汰」を欲するし、安東氏にすれば寝返り「蝦夷沙汰」の恩恵を維持した。

この段階でまだ下北半島「宇曽利」は安東氏が統治…

なら、安東氏vs南部氏の主因は「蝦夷沙汰」の確保ではないだろうか?

現に、織豊期に八戸の根城南部氏は、前提の様に、小型船の造船を行い売っている。

民間か?領主か?は別にして、交流は続くし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

志苔館跡の様な伝承は残らないだろうし、交易せねば大量の埋蔵古銭も出ては来ない。

ここには「南北朝の戦い」から離脱し、津軽海峡を渡ったとする伝承…何も無くして、自領を捨てて迄北海道へ移住する必要は無い。

 

如何であろうか?

これは断片に過ぎない、故に備忘録。

青森は面白い。

資料館や史書をみると、津軽側と糠部側では見解に差がある。

で、西浜方面と弘前方面では微妙に温度差があるし、同じ糠部方面でも八戸を始めとした九戸四門地域と下北半島地域では温度差がある。

で、三戸&盛岡と八戸の見解も違う。

主には南部氏に対する評価の違いかと思う。

だが、本当に起こった事は一つしかない。

我々は他地域のエッセンスを入れて精度を上げるのみ。

それは北海道でも同様。

 

参考文献:

「尾駮の駒・牧の背景を探る」 六ヶ所村「尾駮の牧」歴史研究会 2018.7.30

 

「新編 八戸市史 通史編Ⅰ  原始・古代・中世」  八戸市史編纂委員会  2019.9.30

 

厚真町 オニキシベ2遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書4-」 厚真町教育委員会 平成23.3.30