末期古墳,蕨手刀,須恵器が示すもの…その物流ルートと人的,文化的移動ルート

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/103840

弾丸ツアー報告や周辺のテキストで、擦文文化の末期古墳らについて学んできたが、折角なのでもっと突っ込みをいれてみよう。

今日のお題は、末期古墳、蕨手刀。

たまたま糠部らの動向を学ぼうと入手した論文集にそれが載っていたと言う、何時ものパターンである。

実は、これらを調べると、それ以前の続縄文期との差異や北東北との関係が浮き彫りになるという。

では序文から…

 

「8~9世紀は、北海道の石狩低地帯を中心に擦文文化が成立する時期であり、それまでの続縄文文化の在地化した土壙墓とは特性の異なる墳墓である末期古墳が築造される。」

 

「北海道の末期古墳と蕨手刀」 鈴木琢也  『岩手考古学会第46回研究大会  北三陸蝦夷・蕨手刀』 岩手考古学会  平成26.7.26 より引用…

 

鈴木氏の指摘する、続縄文文化から大きく変貌する点は、

・北東北の土師器集団の影響により擦文土器が出現

・竈付の竪穴住居の一般化

この2点。

そしてここから終末古墳。蕨手刀や須恵器を目印にして、その移動,伝搬ルートを明らかにしようと試みている。

では…

 

①北海道の末期古墳

現状検出されるものは、

江別市後藤遺跡

江別市町村農場1遺跡

(上記2点が江別古墳群)

・札幌市K39遺跡(2箇所)

恵庭市西島松5遺跡

恵庭市柏木東遺跡(恵庭古墳群)

千歳市C15遺跡

千歳市C1遺跡…計8箇所の検出を見る。

 

②墳墓の変容

鈴木氏は、

・後北式C2,Dに伴う土壙墓(3~4世紀)

・北大式に伴う土壙墓(5〜6世紀)

・7世紀の土壙墓

・8~9世紀前半の土壙墓

・8~9世紀前半の末期古墳

に分別し、規模や特性(長軸,短軸,深さの平均値を三角形で表す)で比較している。

7世紀までの土壙墓については、後北式(3~4世紀)の特徴同様の特性を示す。

しかし、末期古墳に於いてはその特性が変貌し、むしろ八戸「丹後平古墳時代」らと規模,特性においてほぼ同等。

8~9世紀の土壙墓は、その中間的な特性だと指摘する。

この特性…長軸,短軸,深さを三角形で表す…ある意味当然かも知れない。

理由は簡単で、続縄文→屈葬、末期古墳→伸展葬なので長軸報告が伸び、深さが浅くなる為。

アイノ文化期の墳墓の特徴が「伸展葬」と言うが、前時代からの変遷と捉えれば、周溝やかまぼこらも含めて続縄文の屈葬よりむしろ、末期古墳からの葬送方法に近いと言える。

鈴木氏は、北東北から北海道への「文化集団の移住(少数)」に伴う直接的な影響だろうと推測している。

アイノ文化のルーツを続縄文,オホーツク文化に求めようとする向きも散見されるが、葬送方法の視点だけで見れば「本州からの末期古墳文化の移入」は無視出来るハズもない壁なのだ。

また、恵庭古墳群の発掘では、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335

土壙墓と末期古墳が隣接して検出している。

それからも影響の大きさや移住がそれなりの規模だった事も想定出来るとは思うのだが。

 

③蕨手刀と須恵器から見る物流状況

・蕨手刀…

8~9世紀の分布をみると

○石狩低地帯周辺の末期古墳群ら

オホーツク海沿岸の目梨泊遺跡、モヨロ貝塚

らが中心になる。

この2箇所の差は

石狩→鞘や刀装具、斧や鍬ら他の金属器と同葬

オホーツク→刀身のみが主

らを挙げ、蕨手刀の使用,副葬のあり方の違いに起因とする。

渡島半島では希薄だが、瀬棚,泊村、そして森町らで検出する。

・須恵器

8~9世紀の分布を見ると

ほぼ石狩低地らに集中しており、同時期の秋田城新城窯で焼かれたもの、後に9世紀中葉~後半では男鹿市海老沢・西海老沢窯らがみられてくる。

須恵器は、瀬棚,泊村、そして余市でも検出する。

これらから、

蕨手刀→

古墳群の分布や蕨手刀検出は、東北でも陸奥>出羽の傾向が強く、その傾向から考えると、人的移動は陸奥側の「太平洋ルート」からの移入が主になる。

須恵器→

石狩低地集中はやはり「秋田城」を起点とした「日本海ルートでの移入」が主で、物流・交易らは日本海ルートが中心であろう。

以上を指摘する。

人的,文化的移動は太平洋ルート、後に交易ルートが秋田城に

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523

固定されるので、物流の視点では、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/20/192453

鈴木氏の研究は、これら断片を綜合的に纏めた知見となるのだろう。

それまでも、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231

こんな風に見られていた訳なので、道内の遺物の整理でより裏付けた事になるのだろう。

 

また鈴木氏は蕨手刀と須恵器の時期的な移動をこのように整理している。

従来から擦文文化の広がりは、道央の石狩低地を起点にして反時計周りで拡散、北方からの人的流入を止め北海道全土に至ると指摘されていた。

まんまなのだ。

北方の文化に見た目が似ている為、続縄文文化オホーツク文化と直結させてアイノ文化に至るみたいな話をする方も居るか、そんな事はない。

一度擦文文化に染められる、そしてそれは、かなりの比率で北東北の文化を受け継いでいる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

秋田城がその機能を停止しても、それらは土豪達が機能を引き継ぎ、この野辺地周辺の活発な動きや

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/10/071915

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/12/185112

東北における「製鉄,須恵器窯の技術拡散」から五所川原窯らへ移行していくだけの事で、むしろ東北とは繋がりが深くなり、確実に同化していく方向に進んでいたとも言えよう。

地理的に末端であり、外部の影響も帯びるが、鉄器や須恵器らを見る限り「地方色を持つ、東北と同様の文化の一つ」とも言えるのではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

現実的には、

・縄文の北海道~北東北の縄文遺跡群…

・後北式,北大式に至る前時代の「恵山式」で既に弥生文化の影響を受け継ぎ、続縄文文化として成立…

ここまで加味して、通史で俯瞰すれば、ちゃんと繋がりは理解出来よう。

北海道だけ全く独立して文化を作っていました…なんて話はナンセンス。

それを言うなら「時系列で物事を並べる事が出来ません」と自白する様なものだ。

我々グループにすれば北海道の続縄文,擦文文化の遺物こそ、見事に文化グラデーションを表し、且つ、我が国が緩やかにそしてある点からそれまで以上に急速に国家として文化統合されていく姿をまざまざと見せてくれると見えるのだが…そうは見えないのか?

 

むしろ問題は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

中世遺跡の断絶で近世との繋がりが見えなくなる事と、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/17/190440

それが故に中世,近世,近代で「時空のシャッフル」をしてしまっている事。

まぁ通史観を持てば、この程度の問題点抽出は出来る。

勿論、研究者はこの辺の問題点は熟知している。

 

 

 

 

参考文献:

「北海道の末期古墳と蕨手刀」 鈴木琢也  『岩手考古学会第46回研究大会  北三陸蝦夷・蕨手刀』 岩手考古学会  平成26.7.26