大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647

こちらを前項として。

今迄も災害考古学,地質学らを含めて、大災害について学んできている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/12/064809

では、前項にある北東北を襲った915年とされる「十和田噴火」とは?

 

「中掫噴火以降最大規模の噴火と考えられているのが、最新の噴火であるエピソードAである。そのイベント中に、南方300kmまで飛散・堆積した広域テフラの十和田aテフラ(To-a)が噴出した(図1)。エピソードAが発生したのは10世紀で、噴火規模はVEI5とされている。弥生時代以降、少なくとも東北地方ではこれ以外にVEI5以上の噴火は知られていない。なお、この噴火が過去2000年間で国内最大級の規模(早川前掲)とされていることは、先に述べた通りである。」

 

「火山灰考古学と古代社会  十和田噴火と蝦夷律令国家」 丸山浩治   雄山閣  2020.8.25  より引用…

 

前項含め、このブログやらにも出てくるが、平安期の「十和田噴火エピソードA」のヤバさは、軽石やTo-a火山灰を吹っ飛ばしただけでは済まず、イベント後半に大規模火砕流が発生し、十和田方向から大館盆地に至る前で停止…が、ここで終わらない。

更に火山灰らが火山泥流(ラハール)となり米代川を下り、日本海まで至る。

この火山泥流(ラハール)が胡桃館遺跡、百目木遺跡、片貝家ノ下遺跡らを飲み込んだ…これである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/12/214629

更に、ギャグで済まないのがこの数十年後に現北朝鮮白頭山噴火しまた火山灰、白頭山-苫小牧テフラ(B-Tm)降下。
この火山灰は1000km吹っ飛ばしてる過去2000年では世界最大級規模との指摘も。

なら、これらがどんな社会に対し、インパクトがあったのか?。

引用した「火山灰考古学と古代社会」では考古学の視点から、遺構,遺物の変遷と当時の社会構造から、災害がどんなインパクトを与えたか?を纏めたもの。

本項ではこの著書から学んでみよう。

 

歴史認識と社会構造

同著では簡単に歴史の動きを説明しているので、それを要約する。

尚、※付きは筆者が他文献から追加したもの。

 

・647(大化3)

越国に渟足柵設置

・648(大化4)

越国に磐舟柵設置

・655(斉明元)

難波宮で北,東蝦夷を饗応、柵養蝦夷と津刈(筆者註:津軽)蝦夷に官位を授ける

・657~660(斉明4~6)

阿倍比羅夫の北進

・※663(天智2)

白村江の戦いで敗戦

・※672(弘文元)

壬申の乱勃発

・※696(持統10)

越度渡嶋蝦夷,粛慎に錦袍袴斧ら賜与

・※701(大宝元)

大宝律令制定、律令制成立、和同開珎鋳造

出羽柵を庄内に築城

・※710(和銅3)

平城京遷都

・712(和銅5)

出羽国建国

・714(和銅7)

出羽へ尾張,上野,信濃,越後より200戸移住(移住は以後も続く)

・※718(養老2)

渡嶋,出羽蝦夷が馬千匹献上

・720(養老4)

陸奥蝦夷反乱

※渡嶋津軽津司従七位諸鞍男ら6人を靺鞨国へ派遣

・※723(養老7)

三世一身の法制定で開墾奨励

・724(神亀元)

陸奥海道蝦夷反乱、多賀城築城

・725(神亀2)

陸奥国から俘囚を伊予,筑紫,和泉監へ移す(移住は以後も続く)

・※727(神亀4)

渤海使、出羽に来着(渤海使来日初見)

・733(天平5)

出羽柵北上(後の秋田城)、雄勝郡設置

・※741(天平13)

各地に国分寺建立

・※749(天平21)

陸奥国司だった百済王敬福が大仏の鍍金料として黄金900両を献上

・※752(天平勝宝4)

東大寺大仏開眼法要

・759(天平宝字3)

雄勝城、桃生城築城

・767(神護景雲元)

伊治城築城、栗原郡設置

・774(宝亀5)

陸奥海道蝦夷の反乱し桃生城攻撃、38年戦争勃発

・780(宝亀11)

伊治公砦麻呂の反乱

※出羽に渡嶋夷狄の慰諭を指令

・※784(延暦3)

長岡京遷都

・※789(延暦8)

阿弖流為放棄、朝廷軍大敗

・※794(延暦14)

平安京遷都

・801(延暦20)

坂上田村麻呂征討

・802(延暦21)

胆沢城築城、阿弖流為降伏

出羽国で渡嶋狄との私的取引禁止

・803(延暦22)

志波城築城

・805(延暦24)

徳政相論により、征夷,造都を停止

・808(大同3)

鎮守府多賀城→胆沢城へ移す

・※810(弘仁元)

気仙沼来着の渡嶋狄二百余人の越冬を許可、衣粮給与(但し取引は秋田城と按察使裁定

・811(弘仁2)

和賀,稗貫,志波郡設置

文室綿麻呂が38年戦争の集結宣言

※内地移徒の蝦夷に2代の間公粮給与許可

・814(弘仁5)

徳丹城築城

・※830(天長7)

出羽天長大地震で秋田城,四天王寺倒壊

・※875(貞観17)

渡嶋荒狄水軍80艘で秋田,飽海両郡に来襲

・878(元慶2)

元慶の乱勃発

権守藤原保則、鎮守将軍小野春風(夷語に通ず)着任

俘虜を募り反撃、津軽,渡嶋俘囚援軍で収束、講和(※この後、製鉄,須恵器窯技術拡散)

・※879(元慶3)

渡嶋夷主103人、三千人を率いて秋田城へ参上

・※881(元慶5)

元慶の乱時に渡嶋狄等の饗応に要した不動穀三千石余免除

・※894(寛平6)

遣唐使廃止

・915(延喜元)

出羽で降灰(扶桑略記)の記録、十和田噴火エピソードA発生

・※939(天慶2)

出羽俘囚の反乱奏上(天慶の乱)

・946(天慶9)

白頭山噴火

 

以上の通り、渟足柵設置〜白頭山噴火までの間の北海道~北東北に関わりそうな部分も追記してみた。

記録上はこの様な流れである。

敢えて…

擦文文化期は概ね7~8世紀位からと想定される(渡嶋は北海道or津軽説はあるが、我々は余市や古墳らの動向で北海道だろうと現状考えている。

この後に道南や北東北は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/15/190213

防御制集落が出現していき、そして安倍,清原氏が台頭、前九年,後三年合戦を経て奥州藤原氏時代へ写っていく。

939年の天慶の乱の前後から、中央史書上、秋田城は登場しなくなる。

805年の征夷,造都を停止から支配体制の変更がなされ、物品取引らは在地土豪の手に委ねられ始め、天慶の乱辺りで秋田城は機能停止していると考えられている。

 

②研究方法とデータ抽出

基本データとして、青森,岩手,秋田の竪穴住居、計455遺跡3545棟に任意No.をつけ、

陸奥郡領内,郡領外

出羽郡領内,郡領外

それぞれに分別し、時代毎に

Ⅰ期→To-a降下前に廃絶(古)

Ⅱ期→To-a降下前に廃絶(新)

Ⅲ期→To-a降下直前~降下中に廃絶

Ⅳ期→To-a降下後~B-Tm降下前に廃絶

Ⅴ期→B-Tm降下直前~降下時廃絶

Ⅵ期→B-Tm降下後廃絶

に層別してその動態を確認。 

特に、

・竪穴住居

形状や竈位置の比較し「律令的建物」「在地的建物」を抽出

・土器の変化

特に煮炊用と考えられる長胴甕土師器で、

ロクロを使う→「律令的土器」

非ロクロ→「在地的土器」

としてを分布らを比較。

以上のデータを用いて、災害によりどの様なインパクトがあったのか?を出していく。

要はこの様な指標を作り、時間軸で並べれば、集団がどのように移動したか?が見えてくると言う研究。

この指標で、在地系住居&律令的土器の組み合わせは存在しないとの事。

 

③結果

細かい検討はデータらまで記載困難なので割愛する。

 

この様な結果との事。

ラハールは、米代川一帯だけではなく安比川や馬渕川、奥入瀬川らにも流れ出た形跡はあり、降灰だけの被害ではなかった模様。

因みに米代川一帯は酷いところでは2m程度被覆されたが、急流且つ小河川では全体被覆と言うより、火山灰と共に強く流され二次堆積した様だ。

安比川、㉓米代川では人口急増と共にロクロ系が増加し、低地の被害地からの移動だけでなく、律令的性格を持つ集団が移動してきた様だ。

但し、⑨安比川周辺は在地系土器も検出しており、⑪らの在地の人々が避難し共存状況になっていった様だ。

また⑰奥入瀬川周辺の人々は、⑯八戸周辺や北側の⑱⑲へ、この延長上にあるのが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647

前項のこれ。ここで急速に律令的住居や律令的土器が増え始める。

そしてその人々が、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

野辺地周辺に到達し、製塩らをベースに対岸と取引をし出す。

共存により文化らの同化が起こってきたとも言えるのだろう。

更に…

安比川での共存状況を見る限りでは、律令側の移住に伴い、在地系が強制排除された様な事は考え難く、自発的に移住して、空いた部分に律令側が意図を持ち(中には被害が小さい所から移動した節あり)移住した様だ。

在地系はある程度自由を持ち、残る又は移住を選択…

律令側はある程度意図を持ち、強制制も持ちながら移動…

と、推測している様だ。

個別の検討では、低地泥炭地に住んでいた集団が、ラハールで被覆された事により(砂系の土質に)住みやすくなりそのまま住んだと考えられる事例もある。

胡桃館遺跡らを見ると、寺社や郡衙を想起させたり水田検出があったりで、かなり律令側が強い場所だったハズで、長を中心に移住を試みた場合もあるだろう。

結果的には、人口増減や、増加した場所での集落の大規模化、文化同化を引き起こした事になるのだろう。

これが大災害でのインパクト。

で、前述の様に、防御性集落を形成する時代へ移り変わっていく、製鉄や須恵器窯技術を拡散させながら。

中で交易らで力を得たり、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/01/054317

別将ら、律令側からの力を付与された者が現れ、それが安倍,清原氏らの台頭へ。

律令側からすれば、既に政策転換により、税らが収められればそれで良しとなれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/18/222411

中世的な側面が先行しても矛盾はない訳で。

 

さて、どうだろう?

大災害はこんなインパクトをもたらす。

同書の著者は、考古学知見は災害考古学へ向け、教訓を取り出すべき…的な指摘をする。

強く同意する。

知識の集積である学問を、直接現代人が生きていく術に転換する事になるからだ。

特に災害史の場合はその初動が生死に直結する。

日本海中部沖地震や3.11で、東北においてはその初動で助かったであろう命があったのは否めない。

災害史は命を守る事が出来るのだ。

 

さて、北海道は?

江戸初期の火山噴火はどんなインパクトを与えただろうか?

百年強で集積1mにも及ぶ火山灰や火山礫が降り注ぎ、場所により火砕流が起きたと想定される。

少なくとも初動は「回避,避難」しかない。

有珠の報告の様に、一度は戻り津波被災地の畠を作り直し、後の火山灰降灰で諦め放棄した様子は見受けられる。

被害状況により、その場で暮らすか移住するかを先祖達は判断している。

ならば、そこで「生き延びる事が出来たのか?」は推定可能。

なぜならば、「放棄されれば遺跡が検出される」からだ。

十和田噴火も江戸初期からの噴火も「重機はない」。

冬の積雪を見れば良い。

20cmも一晩で積もれば全く別世界。

火山礫ならよせる事も簡単には出来まい。

 

人は災害で避難する。

生活不能なら移住する。

空白が出来れば新たな移住者が来る。

そして文化同化や新たな都市化が起こる。

そんな研究事例である。

勿論、これを北海道側に拡大してインパクトの確認をする事も可能だろう。 

 

 

 

 

参考文献:

「火山灰考古学と古代社会  十和田噴火と蝦夷律令国家」 丸山浩治   雄山閣  2020.8.25  

 

「日本の遺跡12  秋田城」 伊藤武士  同成社  2006.7.10

 

「江別古墳群 -石狩平野を望む北の古墳-」 江別市教育委員会  平成10.2.1