https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/02/183834
これを前項に。
関連項として…
秋田家家系図と統一安東氏…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/233328
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/17/201849
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/102500
湊(上国)安東氏について…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435
安東一族の「勅勘」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/192830
安東氏と戦国武将達の関係…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/01/131520
安東氏と蠣崎(松前)氏の関係と何故蠣崎(松前)氏が独立出来たか?…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/30/170600
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/08/060542
安東氏麾下「安養寺氏」とは?…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/21/194111
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/11/210211
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/110811
十三湊の状況…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/054041
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/28/143650
脇本城と貿易陶磁器…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529
隣の庄内の状況…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
そして、造船…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
と、安東氏関連を並べてみた。
また、安東氏を取り上げてみよう。
と言うか、「戦国武将列伝 東北編」で、安東愛季と実季が取り上げられている。
謎多き一族、それも斗星「安東愛季」となれば、どの程度研究が進んでいるか?チェックせねばなるまい。
本著では、
・能代湊と檜山安東氏
・土崎湊と湊安東氏
・愛季の外交力
・織田信長と愛季の官位
・鹿角・比内をめぐる戦い
・由利・仙北をめぐる戦い
・湊合戦−実季と通季
・浅利氏との紛争とその後
と、項目が区切られ二人について記される。
ざっと書けば、
十三湊陥落から庶流安東政季が渡島経由で檜山に入り、檜山屋形を起こす…
十三湊から分派した安東鹿季が秋田湊に入り(諸説有り)、湊屋形を起こす…
周囲との軋轢を凌ぎつつ、安東愛季は檜山屋形と湊屋形の統一を果たす。
が、愛季は戦いの最中に病に倒れ、先に嫡男を失っていた事から実季がそれを継ぐが、幼い為に内乱が起きてそれを鎮圧、それが秀吉の惣無事令に触れたとして嫌疑を掛けられ、又、北の関ヶ原では家康に敵対した小野寺氏と通じたとして秋田→宍戸→三春へと移動させられる…
概ねこんな感じか。
あまり、秋田県史らの記述から新たな事実が見つかった感はなく、正直謂えば物足りなさを感じる…とは言え、それはやむを得ない。
何せ、残された古文が少なすぎ、実態不明の点が多すぎるのだ。
そんな中の記述、著者に敬意を払うところである。
大河にでもなり取り上げでも差れなければ、なかなか古文は出て来ないかも知れない。
とは言え、秋田県公文書館によれば、安東愛季を取り上げた歴史小説は「鳴神響一」さんの「斗星、北天にあり」のみとの事。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1436609041963175938?t=Zix1Z5qhaAQ0X7SKuUZFiA&s=19
主城「檜山城」も、発掘が始まって数年。
なかなか絶望的状況なのである。
そうも言っていられないので、新たな学びを付随してみよう。
※下記で「」内は同書からの引用となる。
①檜山の宗教観…
「十四〜十五世紀には、米代川流域とその周辺地域で時宗の布教活動が行われていた〔時宗過去帳〕。」
安東政季が檜山入りするのは15世紀と言われる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435
秋田に於ける中世の板碑群の分布は、竈探しにおいて石工の活動を探る事で概ね確認しているが、筆者的には米代川で板碑群があるのは確認出来ていない。
板碑群は米代川流域ではなく、八郎潟東岸の南秋(湖東)地区且つ鎌倉末~室町期で、著述とは差がある。
米代川流域にもあるとするなら、確認が必要になる。
男鹿半島~湯川湊比定地付近から広がると考えられているので、米代川流域も時衆が居たならこれは新たな学びだ。
②檜山安東氏の活動…
「天文十九年(一五五〇)頃には、檜山安東氏が日本海交易に関わっていた様子もみられる。檜山安東氏が小浜(福井県小浜氏)に置いたとされる代官だとされる関戸豊前守が、糠部産の馬を若狭の守護武田氏に献上し、小浜の本鏡寺に対する役銭の免除を認められている〔組屋文書〕。また、檜山安東氏は、蝦夷ヶ島の支配を蠣崎氏に認める一方、各地から松前に来た「商船旅人」に蠣崎氏が課税した税の過半を上納させたという〔新羅之記録〕。天文十五年には、蠣崎氏を軍事動員するなど従属させていたことがうかがえる。」
算用状では、安東氏の北陸拠点は、算用状らから敦賀と考えていたが、関戸豊前守という実名有り…小浜に拠点を持つ事に。
確かに、江戸期独立後の松前慶広は、安東氏から引き継いだであろう北陸拠点をたしか敦賀→小浜と変更したかと記憶…元々安東時代に檜山→小浜、湊→敦賀と両拠点あったのか?
この辺は宿題。
と、蠣崎(松前)との関係だが、何故新羅之記録にこの辺の記述が載っているのか?
朝廷、将軍、秀吉の様な権力者、周辺の武将ら…これらに自分の身分を納得させるには、正当性が要求される。
この正当性が無ければ、誰も相手にしない。
力を持とうが、周辺の武将が好を結び大義名分の元、連合で潰しに来るのが戦国時代。
独立戦争を仕掛けて、安東氏に勝てるか?…不可能。
先に本州からの湊を押さえられれば食料が干上がり、背後の蝦夷衆の統制が効かない。
南部氏に援軍を求めるのは蠣崎氏の生い立ち上難しいし、大浦(津軽)氏こそ親交ある浪岡北畠氏を滅ぼしている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/27/092649
この辺をどう解釈するか?が、判断の分かれ目になるかとは思うのだが。
③湊安東氏の活動…
・「大永二年(一五二四)頃、湊左衛門佐入道が室町幕府管領の細川高国へ鷹をおくるなど〔湊學氏所蔵文書〕〜後略」
「前略〜高国へ鷹を送った湊左衛門佐入道は、蝦夷錦と思われる錦を本願寺へ送っている〔証如上人日記〕。」
「近世に土崎湊の問屋となる間杉家は、永禄二年(一五五九)に越前から戦乱のため移住したと伝わる〔間杉家文書〕。そのため、現在の福井県駿河に所縁のある者がいるといい、土崎湊−敦賀−京都の交流や交易が定着していたことをうかがわせる。」
証如上人は上記通り、檜山と湊とのいざこざ仲介をしていた事は押さえていたが、細川高国や間杉家らの実名については新たな学び。
敦賀の話は上記の通り、商人の存在は朧気であった。
更に史書の読み込みが必要だと反省させられる。
また蝦夷錦については正直さもあらん。
湊氏は上国氏。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/09/204601
−石狩 (河口に狄家数知れず、川上約20kmに上ノ国惣大将ハウカセの居城有り)−
何気にサラリと書いたが、お気付きだっただろうか?
日本海ルートの掌握は主に秋田(土崎)湊、太平洋ルートの掌握が下国氏で十三湊→能代湊と考えていたので、そのままなのかも知れない。
基本的にはごちゃ混ぜになったであろうが。
因みに、奈良一族もこの頃大和から移り住むと伝えられる。
間杉家同様、安東氏が受け入れた事になるか…
まぁ安東氏は一族で羽黒修験、熊野修験に精通するようなので、宗教的繋がりあるともこれもさもあらんなのかも知れない。
④檜山の材木…
「大宝寺氏下にあった土佐林氏(山形県田川郡藤島城主)も、愛季の重臣大高四郎衛門を取次として愛季へたびたび書状を送り、羽黒山造営用の杉材調達のために小舟を下すので、湊や川の口、山の口での諸役賦課を免除して欲しいと依頼している〔市川湊文書〕。檜山の杉材は庄内まで流通しており、愛季は湊や川・山の口を往来する者に税を課して財源としていたようだ。」
土佐林氏は上杉とも通じていたが、元々羽黒山の別当を兼ねていた。
後に大宝寺氏に攻撃され羽黒山別当職は奪われるが、僧坊造営らで秋田杉を必要としたか。
この秋田杉は伏見城普請らで東北→北陸→畿内と運ばれた様は算用状らで記録が残る。
それ以前、既に羽黒山用で出荷されていたのは初見である。
他はどうか?…確認したい。
筆者の安東氏に対する学びは、地方史書ベースで流れを掴み、論文らで肉付けしているので、どの程度習得出来てるのかは皆目解らない。
一応、本筋としては研究者とそんなに違ってはいない様ではあった。
まぁ筆者的には地元で少しずつ、事実関係を掘りつつ、北陸含めた各地の史書や論文から知見を増やす事になるのは全く変わらない。
筆者に不足しているのは、他地域や家臣団の人脈なのは、上記初見らを見ても明らか。そこを少しでも広げていこうと思う。
これらから、勅勘、蝦夷管領、日之本将軍らと呼ばれた一族が少しでも知られて、研究が進むのを期待したい。
参考文献:
「安東愛季・実季−二つの安東家を統一した秋田の雄−」 遠藤ゆり子 『戦国武将列伝1 東北編』 戎光祥出版 2023.4.20