石山本願寺十世「證如上人」の日記…戦国の北海道~東北の真宗門徒の断片

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せっかく前項で中世の中央史と東北史を取り上げたので、中世の寺社にも、少し触れておく。
石山本願寺の證如上人が書いた「證如上人日記」の四題、引用してみる。


「天文十二年(註:1543)秋分七月中五日 当番の儀につき、浄願寺が捻餅樽を持参す、初めての事。」

「天文十二年(註:1543)秋分七月十二日 出羽国秋田湊親子への音信のこと、西善寺申すのあいだ、音信せしめおわんぬ。頼尭書状添えるべくのよし、申しつくるなり。」

「天文十五年(註:1546)秋分七月廿三日 出羽国秋田湊左衛門佐入道より、先年の返しとして錦(註:蝦夷錦比定)来る。夷嶋浄願寺のことづけなり。かの湊の子、次郎方へ、先年音信を遣わす。しかしその刻親子もってのほか義絶の条、延引せしむところ.その後和与に候といえども、すでに丹後の書状の日付、ことのほか相違のあいだ、浄願寺持ち上ぐるなり。」

「天文十五年(註:1546)十一月二十八日 ~中略~當番衆 橋立善教、長久寺、成信坊~中略~出羽西善寺、エソ浄願寺、イツミ眞光寺、トンダ光照寺、以下四十壹人也。」


能代市史資料編 古代中世一」 能代市史編さん委員会 平成十年三月より引用。

一番目 浄願寺は秋田市にあるお寺さんで、1471年に建立、後に北海道に末寺を建立…これが夷嶋浄願寺で1499年建立と言い、どうもその後、五所川原→湊と移った模様。
「初めての捻餅」の様に、かなり細かい描写だ。

二番目 西善寺から、湊安東氏親子へ書状だして欲しい旨の依頼があったと言うもので、門主がそれに対応したと言っている。

三番目 どうも前後に、湊安東(上国)で内紛があった模様で、それが夷嶋浄願寺から報告された模様。
何らか石山本願寺が関与したのか、湊安東から蝦夷錦と思われる「錦」が送られている。
解説では、二番目にある書状との関連を示唆させている。

四番目 西善寺と夷嶋浄願寺が共に当番衆として加わったと言うもの。当番衆の実態は詳しく解らないとしてはいるが、この時、石山本願寺と色々交流や何らかの手伝いの様な事をしていた事が考えられる。

さてこの時代の石山本願寺っていったら…
そう、大坂の真宗の総本山。
日記の主である證如上人は本願寺十世で、山科本願寺焼き討ちの後に大坂石山本願寺に移った方。
この方は割と融和派だった様だ。
そして、この證如上人の長男が「顕如上人」…織田信長公と抗争した方だ。

そんな時代背景の時に、秋田も北海道も、石山本願寺と深い関与があった寺が存在した訳だ。
寺社は記録が多いので、何らか本山に記録あらば、何らか追う事は可能なのかも知れない。
何せ、能代市史は、北海道関連の資料を検索してる訳ではない。

ただ、北海道に於いて、現在幾つかある「浄願寺」さんとの繋がりは、調べておらず解りませんので悪しからず。



参考文献:
能代市史資料編 古代中世一」 能代市史編さん委員会 平成十年三月