対岸の状況はどうだったのか-3、更にあとがき…「稲崎袰崎神社の板碑」と安東(藤)氏の関係、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623

前項で割愛した板碑の件も、展開が面白いので少し触れよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214

安東氏の宗教感は以前も報告済。

紀年遺物らや時宗過去帳らからみれば、津軽安東氏が当時時衆だった事が解る。

関連項にある東通村の板碑が、東通村史にあるこれになる。

 

稲崎袰崎神社の御神体として祀られ、今は覆屋にあるが、かつては拭きざらしだったとされ、地上最大高✕最大幅✕最大厚さが156✕45✕15cmで、地下部分を含めると200cmと推定される大型である。

種子はキリーク、阿弥陀如来を示し、それ以外の銘文は確認出来ないと言う。

勿論、その建立目的は、死者や本人(生前建立)が阿弥陀如来により極楽浄土へ導かれる事を祈るもの。

但し、銘文が認められず建立者や建立年代が解らない。

では、その辺どう解析されているか?

 

まずは建立年代。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/09/204105

ここでも少し触れたが、彫り方が近世の彫り方と違い、文字の縁から中央に向かって深くする「皿彫り」と呼ばれる彫法だと言う。

また、碑面上部上部に大型の種子を置く事も含め、中世板碑であろうとしている。

それだけではない。

他の青森県内のキリークの種子の板碑(紀年有り)と比較し、文字の書体が特殊(毛筆書風ラ字)である事、材質が安山岩である事から津軽西ノ浜の板碑群との共通点を見出し、概ねそれが文和5(1356)年〜永徳(1381~1384)年間を含む14世紀中〜末期のものと推定している。

筆者的には少々引っ掛かりがある。

その作りが、関東型であろう事。

種子上部に凸がつく。

津軽西ノ浜のものは、

自然石をそのまま使う関西型が多いかと。

上の写真は市浦村相内の蓮華院の板碑群。

東通村史上でも、クサビを打ち込み成形した事を指摘してはいるが…

が、ここではそれだけで終わらない。

 

実はこの「毛筆体風ラ字」の書体を持つキリークの種子を持つ板碑は、まだあるとの事。

それは宮城県石巻市北上川河口エリアに七基あるとの事。

その年代は1346~1416年且つ盛行が14世紀後半と言う概ねの共通点があるそうで。

では、形は?

石巻の板碑群はこんな感じの様だ。

https://rekishijisya.com/kaizouan/

関東型の特徴、三角頭と凸部の二本線は見えないが、四角く成形した形と良く似ている。

東通村史上では、もっと広域な地域間差をマクロ的視点で比較したかったとしているが、なかなか難しく今後の課題とする。

 

では、これから何が読み解けるのか?

津軽下北半島石巻を繋ぐものである。

津軽安藤視点が十三湊を拠点に日本海海運に携わっていた事はつとに知られた事実であるが、石巻地方の牡鹿半島には、鎌倉時代以来「安藤太郎重光」を初代とする安藤氏がおり、牡鹿半島の浜が漁業や海運の基地として、同氏に代表される様な「海民」の拠点の一つであった可能性を、東北学院大学の大石直正が指摘している。鎌倉時代後期の専制化した北条氏が、その全国的な支配を遂行する為、海運の掌握に力を注いでいたことはすでによく知られているが、こうした奥羽「海民」の組織・編成が鎌倉北条氏の奥羽各地における所領=「得宗領」支配のネットワークとして位置付けされ、機能していたことも指摘されている。牡鹿半島の安藤氏と津軽安藤氏が、どの様な関係を有するのかは明らかでは無いが、前述の様な観点に立てば、津軽十三湊〜宇曽利郷〜牡鹿半島(石巻地方)〜松島〜鎌倉を結ぶ東国太平洋海運ルートの存在も推定される。

宮城県の松島「雄島」にある貞和五年(一三四九)の大型板碑には、一四五名の結衆中に「安藤太郎妻」、「又太郎妻」の名が見受けられ、安藤氏の一族が本碑の造立に直接関与していた事実が知られる。〜中略〜石巻地方と下北を結ぶ情報媒体の一つは、おそらくこの海運ルートであった事が考えられる。」

「もう一つの可能性は、石巻の牡鹿湊は、中世を通じて奥羽における「時宗(じしゅう)」の最大の布教拠点であった事である。

石巻市専称寺(せんしょうじ)跡には永仁〜長享年間(一ニ九六〜一四八九)の時宗板碑、約四〇基があり一ヶ所に群存する時宗板碑としては、国内では最規模のものである。」

 

東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1  より引用…

 

湊と時宗は強い繋がりがある様だ。

引用にある専称寺は、北朝方奥州惣奉行の葛西氏の菩提寺でもあったと言う。

ここを拠点にして、東北への時宗布教や拡大を行ったと考えられ、それは在地土豪や各地の港湾ネットワークから広げられたと考えるのだ。

又、司東真雄が「時宗僧の北朝密偵説」を指摘、こんな時宗ネットワークで情報伝達していたとすればあながち否定出来ない面もあるとする。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435

我々は「石の竈、へっつい」を伝えたのではないか?として、板碑を追って来ているが、ここに来て絶妙な位置に。

この秋田での最大の板碑が残される地域が男鹿半島〜南秋地区、その中心にあるのが、古書に記される「湯河湊」の比定地、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026

州崎遺跡、そして安東兼季の名が書かれた棟札。

ここも安東氏縁の可能性を秘めた地域。

なら、対岸北海道は?

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190759

何度も登場、「貞治の板碑」。

ましてや、この後の時代に安東家臣団には「河野政通」が。

河野氏はご存知、伊予水軍越智氏の流れ、時宗の開祖の一人とされる「一遍上人」がこの一族。

「貞治の板碑」の存在に何か疑義でも?

「海民」が海運ネットワークで時宗を伝えたたとしても、何の矛盾もない。

何せ対岸の東通村にもあるのだから。

 

さて、どうだろう?

さすがに、ここまでの広がりは東通村史には無い。

だが、海運・流通・宗教・政治ら中世を究明する為の積極的活用は必要としている。

ついでに…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/054041

十三湊の津軽船は、北陸、そして尾道周辺まで就航していた古書記載はある。

途中、佐渡には「夷狄の文字を含む村」が存在し、

https://niigata-kankou.or.jp/spot/42534

石積の文化が。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/27/212200

さて余市の石積、ケルン…

湊と時宗、山と石積。

微妙な接点が。

海運を元にするネットワークの存在…

そして俘囚長を名乗った「安東氏」との関係。

 

蝦夷と表現された人々は何者で、誰を指すのか?

なら、幻の「安東水軍」は何なのか?

そんな話をしている。

申し訳ないがバッサリ。

北日本の海運を担った安東氏とそのネットワークを考えたなら、「蝦夷=アイノか?」なんて、狭い話ではないのだ。

これで解るだろう。

仮に「蝦夷=アイノ」などと直訳するなれば、そんな存在は日本中どこにでもいる。

湊を中心に生きた「海の民」として。

近世アイノとは一線を画す。

往古の津司から日本中を往来し、物流を担った民として。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/24/080958

ネットワーク論を紐解かねば事実は解らぬと。

そして我々が追う視野は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/10/180000

遥かに壮大だと。

 

 

 

 

 

参考文献:

東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1

東通村史 遺跡発掘調査報告書編」 東通村史編纂委員会 平成11.2.1

「浜尻屋貝塚 -平成12~14年度発掘調査報告書-」 東通村教育委員会 2004.3.25