対岸の状況はどうだったのか-3、あとがき…「浜尻屋貝塚遺跡」に暮した人々は?を「東通村史」に学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/05/204149

あとがきとして「東通村史」から、「浜尻屋貝塚」の人々がどんな暮らしをしていたのか?を続けてみよう。

と、言うか…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/29/125457

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/08/062222

東通村史」の作りが、この「音更町史」「平取町史」と好対照だから。

先に結論を書けば、

蝦夷地の頃 未開の地」とした音更町

・考古と通史を切り分けた平取町

これに対し、東通村史は北海道と非常に近似した「古書記載が残されていない」共通点を持つ様だ。

ここで音更町史や平取町史では、考古は考古、通史は通史と切り分ける傾向がある。

これは読んだ事のある他の北海道地方史書同様。

元々、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/101118

北海道の区分上、アイノ文化期以降が「有史時代」、それ以前は「先史時代」としているので、解らぬ訳でもない。北海道地方史書上、歴史として語られるのは「アイノの歴史からスタート」としている点。

その割に、有史時代と先史時代の繋がりが解らないという矛盾を抱える。

だが、東通村史は違う。

同じ現住民の先人として捉え、古文の整合しない部分は考古史料から出来るだけ読み解き、解説している点。

長く通史で使われた「東北太平記」の矛盾を指摘した上で、

「しかしそのようなものではなく、しっかりとした資料をもとに、いわゆる科学的な村史を延べることによって、確固とした史実に基づいた歴史をしることになり、これからの新世紀に向かって走り出す子供たちが育ち、青年たちも勇気を持って羽ばたくことができるであろう。」

 

東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1  より引用…

 

としている部分。

史料が無いのは同条件。

不足する部分は考古史料を咀嚼し、その時代に先人がどう暮らしたか?を解説するスタンス。

ここは続縄文や擦文の遺物も数多い。

だが、どんな人々が暮らそうが、その時代に生きた先人には変わりないとして解説している。

雲泥の差。

筆者は先日、津軽半島側にも行ってみた。

小泊までくれば、

北海道は眼前。

先祖達にとって津軽海峡はしょっぱい川に過ぎない。

これでも尻屋崎も小泊岬も大間より遠い。

それでこの雲泥の差が出るのが、理解不能

では、浜尻屋貝塚遺跡から読み解かれた中世の周辺に住む人々がどんな暮らしをしていたか?学んでいこう。

 

まずは、年代特定に使われた陶磁器から。

「中世において中国産の青磁白磁は全国各地から出土するのに対し、珠洲焼・越前焼日本海側の遺跡を中心に出土が知られており、特に珠洲焼の北限は積丹半島にまで達している(吉岡一九八九)。

陶磁器のように運搬による破損が懸念され、かつ容量のあるものを大量に運ぶ手段としては廻船が適している。また浜尻屋貝塚から出土した陶器は日本海側に生産地が求められるものが目立ち、これらさ当然のことながら日本海を渡ってきたと考えるのが妥当であろう(図1)。」

「中世において尻屋崎の海産物を出荷する場合、それはどこから積み出さたのであろうか。

尻屋沖は、津軽海峡と太平洋の海流がぶつかり複雑な潮の流れがみられるところであり、また海底の岩礁の起伏が激しいため海難が頻発してきた場所として有名で、廻船が停泊できるような条件は兼ね備えていない。

浜尻屋貝塚の海産物は、田名部まで一旦陸送されそこから廻船に積み込まれ日本海を渡って出荷されたと考えられるのであり、貝塚から出土した牛馬は、陸送のため家畜が使役されたことを示すものであろう。」

 

東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1  より引用…

 

海産物出荷と陶磁器搬入を絡め。

尻屋崎へは田名部を主要湊とし、そのルートを推定している。

納得である。

下北半島の北東側には湊の条件が揃わない。

牛馬の骨が出土しているので、尻屋崎→田名部→日本海ルート…が、妥当という事だろう。

古書上も田名部の湊の話は存在する。

田名部を中心に生活物資が搬入され、周囲から海産物らを集め積み出す…こんな流通体制が既に構築されなければ、陶磁器や古銭らの存在を証明不能

 

次に漁労。

「アワビは単に美味しいというだけでなくヌメリを取って煮沸し乾燥させ「干鮑」に加工することにより、数年は貯蔵が効く保存食料となる。

平安時代に編纂された『延喜式』には、諸国から税として貢進されるいろいろな産物に混じって約四〇種ものアワビの加工品の名が登場しており(矢野一九ハ九)、都にすむ役人や貴族の食生活を支えるうえで重要な食品となっていた。アワビは旨味・保存性ともに高い優れた食材であり、浜尻屋貝塚から出土したものも「干鮑」に加工され商品として出荷されていた可能性はきわめて高いと考えるべきであろう。」

「浜尻屋貝塚のアワビ漁は、浅瀬での捕採のほかに、潜水・見突きなども行われたことが考えられる。」

「ただし、刺突痕跡をもつアワビは、全体の一パーセントにも満たない確率でしか存在しないため、この貝塚では主体的な漁法とはなっていない。刺突痕の数は一ヵ所のものと二ヵ所のものがあるが、一ヵ所のもののほうかま圧倒的に多く、ヤスとして最も単純な形態の先端が分岐しないものを多用していたことが考えられる。民俗資料にみられる先端が三叉に分岐きたアワビヤスは一四〜一五世紀段階では存在していなかった可能性が高い。」

貝塚から出土する回遊魚を手がかりとして、当時の漁期を考えることができる。

マグロ・メカジキ・ブリ・カツオ・アカエイなどの暖流系の魚類は海水の温度が上昇する初夏から秋までの間に尻屋崎に現れる。これに対しマダラ・サケ・ネズミザメなどの寒流系の魚類は秋から冬にかけて南下してくる。アブラツノザメは、朝鮮からカナダに分布し水深ニ〇〇メートルの下層に住むが一ニ月頃から胎児を生むため浅所に移るといわれており、やはり冬に捕獲されている。また、ニシンは四月に捕れる魚である。このように回遊魚を中心に浜尻屋貝塚の漁期を推定すると、ほぼ一年を通し漁撈に従事していることが分かる。さらに、アイナメカサゴのような根魚は随時漁撈の対象となったことであろう。」

 

東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1  より引用…

 

ここでは、前項の「カマド状遺構」の存在、古書上の安東氏の存在、魚の状況、サイコロの出土らから等から遺跡は季節漁ではなく、漁撈が通年行われる定住的な集落遺跡だと推定している。

また、地盤が砂地でヤマセの影響が強く農業を生業とするには厳しく、やったとしても、そのウェートは低く専業漁師、且つそれを安東氏へ卸す事で生活を成り立てていたと考えている。

さらに、引用部のアワビ漁法だけではなく、マグロら大型魚は離頭式銛、カツオやブリ、スズキは

疑似餌、マダラやタイは鉄の釣り針を使った餌釣りと、網を使った漁だけではなく予想している。

続けて、貝塚からはウニも大量出土しており、江戸期「塩カゼ(塩漬け?)」での五戸,七戸らへの出荷記録がある事から、干鮑ほど遠隔ではないが、ウニも出荷されていたとしている。

 

どうだろう。

居住地までは発見されては居ないが、定住性、通年通しての漁撈、取引先、取引ルートに至るまで概ね推定出来る程に噛み砕いている。

 

筆者か考える。

専門的内容や、考古と文献史の切り分けをする事が地方史書に求められた事なのか?

勿論、地方史書は専門家も読む。

しかし、一番読ませるべき相手は地元の一般の方々。

専門性を上げて、一般の方々が読む気になるのか?

否。

一般の方々が欲するものは、こんな具体的に「先人はどのように暮らしていたか?」ではないのか?

この辺に、書き手が考える事と、読み手が欲する事の乖離を見るのだ。

資料館の展示は誰の為?

地方史書は誰のもの?

これは本州だけの事ではあるまい。

北海道も同様なハズ。

現代の住民が、先人の暮らしを学び、未来の子孫へ伝える為のものなのではないか?

なら、先史時代は未開の地…などと言う表現は有り得ないと思うが。

少なくても、我々には歴史や文化財を扱う者のレベルの違いに見えるのだが。

百歩譲っても、一集団の為のものではないハズだ。

これが、現住民が読み、未来の子孫へ伝える為の「地方史書」ではないだろうか。

読みながら東通村の取り組みを賞賛する。

 

 

 

 

参考文献:


東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1

 

東通村史 遺跡発掘調査報告書編」 東通村史編纂委員会 平成11.2.1

 

「浜尻屋貝塚 -平成12~14年度発掘調査報告書-」 東通村教育委員会 2004.3.25