対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきのあとがき…なら、「蠣崎蔵人の乱」の捉え方は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/09/211342

この際である。

中世と言えば、https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/26/204942

「蠣崎蔵人の乱」も。

野辺地町史での捉え方はこんな感じ。

では、田名部に程近い東通村史では?

蠣崎城は?

実は、前項にある「東北太平記(又は北部御陣日記)」こそ、この蠣崎蔵人の乱を記載した古文。

予め書けば、

①地域の名称が違う事

②援軍として山丹人やモンゴルが登場、またホテレス砲なる兵器が持ち込まれたらがある

等、荒唐無稽さが目立つとして、かなり否定的。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/05/204149

安東領→南部領の切り替りはこの事件からと推測。

ではその辺を…

 

「前略〜このときに平定した「田名部(下北)」の地は、「八戸領」としてあるのであり、その後に書かれた棟札などにも八戸の武士の名前が書かれている。例えば目名・熊野宮の最古なる慶長一〇年(一六〇五)の棟札に

「種子  泰造栄熊野宮本師釈迦牟尼如来  大旦那新田弥六良  禰宜 三光坊」

と記され、裏側には

「慶長拾年乙巳九月  藤原盛重判」

とある。ここにいう「大旦那」というのは、その土地の領主のことであり、たいていの棟札には「大旦那○○○○○」と記されているのである。ここでの新田弥六郎は根城南部家の第一等の家臣であり、八戸市新井田に新田城跡(現在は新井田小学校が建っている)を構えており、根城南部家に跡取りができない際には、ここから出すこととなっていた、というほどの家臣であった。その人の名前が「大旦那」として出てくることは、この目名の地を治めていたのかということも考えられる。」

「『南部氏新田家系略』によると、

「… 七代清継 弥六郎  後任近江守(康正三年(一四五七)二月下旬  嫡家一三代政経  為攻撃田名部領主蠣崎蔵人  発船於八戸湊  経海路而着岸於蛎崎  直囲城攻之…」とある。

このように「蛎崎の乱」と呼ばれる戦乱はら史実としては捉えられるものであるが、そこ叙述があまりにも大袈裟になされており、どの参考書をみてもその信憑性を疑われてきている。」

 

東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1  より引用…

 

基本的に「反乱」と呼べるものはあった、が、少なくとも『東北太平記』の様なものではないとしている。

ズバリ言えば、蠣崎城は特定されてはいない。

が、関連項にあるように、奥州探題の大崎氏からの恩賞が複数残る事も加味して、

①『東北太平記』の蠣崎蔵人の乱の記述は創作。
②南部氏が恩賞を受けたのは事実であろう。
③よって、蠣崎蔵人と言われる人物が武装蜂起をして、南部氏に鎮圧されたのは事実であろう。
④それまでの遺跡傾向と、それ以後作られた城館の変化から、乱以前は安東方が掌握→乱鎮圧の恩賞…この時点から南部氏が下北半島先端まで掌握した。

こんな解釈の様だ。

では、北海道と絡めると…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459

ほぼ同時期にあったと言うコシャマインの乱

新北海道史でも懐疑的な記述。

コシャマインの乱は立証が出来てはいない
・蠣崎蔵人の乱は発生確度が高い
よって、どちらが本当に発生したのか?考えると、蠣崎蔵人の乱の蓋然性が遥かに高い事になる。

但し『東北太平記』は、話が荒唐無稽で盛り過ぎ、こんなところか。

蠣崎蔵人自体、出自が解らず、安東方か南部方か微妙ではある。

但し、東通村には南部領では極珍しい「板碑(関東型?)」が稲崎袰神社にあるそうで。

これも詳しく解説しているが、割愛する。

前述の様に、何らかの事件前は安東領であるとする根拠の一つ。

安東領→蠣崎蔵人の乱→恩賞で南部領に…と言う話の辻褄は合う訳で。

従前より、中世に北海道であった蝦夷の乱は南北朝から続く「安東vs南部の抗争に起因する」…

これも、それこそ荒唐無稽な話ではなかろう。

この辺も、中世北海道の隠された姿の片鱗として捉えれば、面白い話になってくる。

一つ一つ、詰めていこうではないか。

 

 

 

 

参考文献:

 

東通村史 歴史編Ⅰ」 東通村史編纂委員会 平成13.8.1

 

東通村史 遺跡発掘調査報告書編」 東通村史編纂委員会 平成11.2.1

 

「浜尻屋貝塚 -平成12~14年度発掘調査報告書-」 東通村教育委員会 2004.3.25