この時点での公式見解①…新北海道史の「先史時代の先住民」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
関連項はこれだろうか…
昨今、「生きていた証シリーズ、竈編」で筆者が各市町村史らを読んでいる事は、読者の皆さんならご存知だろう。
以前、ネット上の北海道の市町村史も調べたりした。
で、あらば、そもそも「北海道史」と言う地方自治体公式の歴史感とはどういうものか?
やはり調べるのが妥当であろう。

秋田県立図書館で確認したところ、明治,戦前,昭和でそれぞれ発行、平成で明治期以降を改訂している様だった。
そこで昭和のものを確認した。
この段階での「新北海道史」は…
第一巻…概説
二~五…通説
第九巻…史料 の九巻による。

皆さんが気になるのは、「先住民」であろう。
この時点で道としてどう捉えていたか?

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1307589109117001734?s=19
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1307600334697578497?s=19

まずは歴史感…
概説の中、昭和五十六年版P29の「土器の相対年代と実年代との対比」の表中にに於いて…
先史時代
「擦文,オホーツク文化期」まで…
歴史期
アイヌ文化期」以降…
と定義している。

「へー」としか言えない。
既に擦文,オホーツク期では鉄器や竈を使い、中央史においても「渡島」として登場する「平安期」までの時代を先史時代と定義。
アイヌ文化の歴史が北海道の歴史なのか?
愕然とする。

では、その擦文,オホーツク期迄の北海道先住民をどう捉えていたか?

「先史時代の北海道に住んでいた人々はどんな種族の人であったかははっきりしない。発掘された人骨はすくなくないが、特徴は各年代ごとに異なり、また地域によっても異なっていて、統一的結論を出すにはいたっていない。先土器文化期に北海道に移り住んだ人々はそのままこの地に定着し、北海道が孤島になるとその原住民となった。その後しばしば海を渡って北方大陸や本州方面から、新しい文化を持った人が渡来したが、これらはおのおのの地域で先住者の中に吸収されていった。これらの渡来者のうちで最も顕著なのはオホーツク式土器文化の所有者であるモヨロ貝塚人である。この人々の骨格の特徴は道内各地で発見された他の文化系の人々、もしくは近世のアイヌ人、日本人とも著しく異なっている。しかしこれらの人々が何処へ行ってしまったのか解らない。」
「恐らくは近世アイヌ人の中に吸収されてしまったのだろう。そしてこの過程がまたしばしば各方面から北海道に移り住んだ人々の辿った道であった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

読んで戴ければ解るが、縄文期ならまだしも、既に秋田城らと行き来し、その先の渤海国らと交易していた件は何もない。
当然、この段階で、終末古墳らも東北とほぼ同様の遺物が出土する事から、移住らもしていると考えられるが。
これなら、先史時代に既に所謂「和人」は北海道に居たと考えられるので、「和人」呼称そのものが成り立たなくなるのだが。
いきなり論理破綻している様にみえる。

更に続く…
「北海道の先史時代の遺物を残した者はコロボックルだといわれた。~中略~ある時、好奇心からその手を捕まえて引き入れてみたところ、口の周囲ならびに手に入墨をしていた。アイヌ婦人の入墨はこれにならったのだという。」
「前略~竪穴、土器、石器はみなこの遺物だという。近代のアイヌはいずれも竪穴、土器、前略を使わないので、明治二十年代、我が国に考古学がとり入れられた時、この説をとり入れ、我国の土器、石器はコロボックルの遺物だとする説が行われた。」
「しかし、コロボックル説話はどこまでもアイヌの伝説であって、実在したものでないことはもちろんである。」
「今日では、丁度日本人の祖先が石器、土器を製造使用したことを忘れてしまったと同様、近代アイヌも忘れてしまっていたのであって、北海道の先史時代遺物はほぼ確実にアイヌの祖先が製造し使用したものであると考えられるにいたった。」
「前略~それよりも樺太アイヌの穴居は構造上、擦文式土器文化時代の穴居跡にそっくりだし、アイヌ家屋の構造には、かつて穴居であった時代のものが残っている。すなわちアイヌも以前は穴居していたが、本州の影響を受け、夏の地上家屋に本州の手法を取り入れ、穴居を廃したものとみていいようである。~後略」
アイヌが、かつて石器、土器を製造、使用していたとしても、北千島アイヌなどは現に祖先がこれを製造、使用したことをいい伝え、現に内耳の土鍋や石ランプなどを使用していたし、樺太アイヌが土器を製造、使用していたことも旧記にみえている。」
「北海道アイヌがこれを使ったことは、蝦夷島奇観、十勝日誌などに書かれている。」

「新北海道史 第二巻 通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より

何故か必死に感じるのは筆者だけであろうか?
擦文文化期で既に所謂「和人」は居たであろうが、その民俗起源をわざわざ千島,樺太アイヌから借りてくる迄もなく、平安迄の竪穴住居には、北海道,本州共に地炉の他に「竈」があるのだが…
ましてこれなら、北海道アイヌの内、
道東アイヌの祖は千島アイヌの侵入した者…
道西アイヌの祖は樺太アイヌの侵入した者…
こんな事まで成り立ってしまうのだが。

ここで特筆すべきは、年代差や地域差がある事を認めている事。
それが何故今日、単一であるように現在言われているのか?甚だ疑問。

コロボックル説が乗ってる事で、え?と思われるかも知れないが、これは秋田の例らで見ても、民俗,宗教観点で必要であろう。
明治20年代の考古学創世記の話だと謳っている。
付記すれば、このコロボックル説の後、前項迄に有るように、アイヌ=縄文説が浮上したが、縄文後期の紋様は縄文人が残したとして否定されている。
この時点でアイヌ文化は無い。

ざっとと読んだだけで、内容よりもその手口?が面白い。
特徴として、

1,続縄文や擦文らの不明な点は、東北との関係は先史時代として軽視し、千島や樺太の民俗を代用し答えを得ようとする。
これなら、鉄器等遺物を利用した千島,樺太アイヌになってしまい、本道アイヌの本質が見えなくなるだろう。

2,擦文期と平安期を意図して併記しない。そうする事で、中央史と道史の関連性を見えなくしている事。
勿論、秋田城の研究は進んで無かった時期なので記載は無いとは言え、いちいち年号を追い、自ら整合させる形をとっている。
それが頭に入っている人にとっては問題ないが、興味の薄い方なら独自性へ目がいくであろう。

3,実はこう言う記載もある。
「こんな話もある」と記載するものの、後の文面で否定する事。
例としては「大野土佐日記」。
説明をつけた上で「偽作したものと考えるのが妥当」みたいな感じにする。
ただ、「大野土佐日記」は、寛政で知内薬師堂に「1404、施主荒木大学」の棟札とか、「雷神社鰐口も1404」の菅江真澄最上徳内の記録が残される。全面否定は難しいのだが、無視。
因みに、この雷公神社の鰐口は所在不明との事。
それで何故か、諏訪大明神画詞は全面肯定…
それに、鰐口を全否定すると、各市町村史との整合性が取れなくなるが、道史編纂委員は全く気にしていない。
突っ込み処満載なのである。

まぁこれは、筆者の個人の感想。
思う処あらば北海道教育委員会へどうぞ。

この「新北海道史」は、当然ながら道民の税金で作られた道としての公式な歴史書
どう捉えるか?は、道民ならば「どう歴史と向き合うか?」と言う究極の内向き問題。

願わくは、何かの折りに、史実との整合性がとれ、大多数の道民の方々が納得出来る物に更新していかれる事を、秋田城が眠る秋田の地から祈念したい。


参考文献:

「新北海道史 第一巻 概説」北海道 昭和五十六年三月十日

「新北海道史 第二巻 通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日