幻の港湾都市「十三湊」…中世北海道と東北を繋ぐ玄関

北海道の皆さんは「十三湊」を知っているだろうか?
知らなければ、是非覚えて欲しい。
北海道史の「謎の中世」を解き明かす鍵の一ヶ所…

十三湊は、津軽半島にある。
勿論、ここを治めたのは、十三湊(下国)安東氏。北海道の蠣崎(後の松前)氏ら一党の大殿。
岩木川が注ぐ汽水湖十三湖の海側の出口付近。そこに中世港湾都市、十三湊遺跡が眠る。
市浦歴史民俗資料館パネルによると、13世紀頃から第一期、その後15世紀半ば迄拡大していく。
グーグルアースで見る限り、十三湊遺跡のみで南北1.5km、東西最大0.5km位。
メインストリートと枝道で整然と武家屋敷,町人屋敷らが区画配置され、水源は井戸。
十三湊遺跡自体は湊町に過ぎず、隣接する十三湖北岸の居城福島城や支城,寺社、居住地区らと一帯し機能していたと考えられており、もはや都市。
十三湊遺跡一帯の出土品は下記の通り。(残念ながら写真NG)

下駄
土錘(漁具)
紡績車
硯,砥石,刀子
釘,楔,かずがい
鉄鏃、刀の鐔、柄頭
鎧こざね
曲げもの(井戸枠)
ふいごの部品、るつぼ(銅付着?)
ひばち
和鏡,金銅掛け仏
臓骨器
石の茶臼
銅銭等々…
これに大量の土器陶磁器。

一通り、全て揃う。
割と土錐があって、漁師町でもあった事をうかがわせる。
その出土した陶磁器も、遠くはシャム(タイ)から大陸や朝鮮半島、瀬戸に信楽やらと概ね?揃う。ここまで揃うのは初めて見た。
正直…驚愕。が、それもそのはず。
その活動範囲は、1371年に九州探題着任の為、西へ向かった今川貞世が記した紀行文「みちゆきぶり」で、瀬戸内随一の港町である尾道での津軽船にも言及、
他の古書にも「津軽船」の記載は残されており、十三湊の船だと推定されている。
時同じ頃、十三湊の僧侶が、周防の浄福寺大般若経の写経に訪れている記録…
つまり、北海道~本州南端迄は最低限活動の痕跡がある。
又、若狭の羽賀寺縁起では1435年に羽賀寺が火災消失、これを後花園天皇の勅命にて、十三湊の安東康季が再建した記録が残る。
つまり、御皇室や室町幕府に直接パイプを持っていた事になり、この段階で安東康季は、「奥州十三湊日ノ本将軍」を名乗り、それは朝廷や幕府にも公認された呼称だったと考えられている。
これら、交易の大元は鎌倉幕府による「関東御免津軽船」の認定…関料(船の通行税)の免除と、他の守護や水軍が手出し出来ないお墨付きを幕府から得、それは室町期も続いていたと…これは凄い。

これら「津軽船」や同時に語られる「安東水軍」の船は竜骨を持つ外洋船だったと考えられている。かの瀬戸内水軍と双璧とか…勿論、十三湊も安東水軍の拠点だったであろう。その制海圏は北陸にも及ぶとか。

因みに、後、室町後期に作られた海の掟を記した「廻船式目」に十三湊は、「奥州津軽十三湊」と記載されている。
それには、「三津七湊」として、重要な十の湊の記載がある。

三津は、
伊勢の安濃津
泉州の堺…
博多の宇津…
七湊は、
津軽の十三湊…
出羽の土崎湊…
越後の今町(直江津)…
越中の岩瀬…
能登の輪島…
加賀の元吉…
越前の三国…

室町後期ならもはや十三湊は衰退期なのだが、上国,下国両安東氏の港が揃い踏みである。
如何に、安東氏が栄え勢力を誇ったか?幾らか解って頂けると思う。その一翼を担ったのが、北海道の物々だと言う訳だ。

さて、港湾都市十三湊には謎がある。
15世紀中~後期にはその機能を失い、歴史から忽然と消える。
後、江戸期に北前船の寄港地になるまで、眠りについていた。
発掘に寄ると十三湊遺跡は、江戸期地層の1.4m砂層の下に眠っていおり、ゴーストタウン化?し、飛砂で埋もれたと見られており、その為、奇跡的にほぼその姿が保存されたと言う訳だ。
では、そこに居た人々は?
その答は「解らない」…

当初、伝承では十三湊は津波により壊滅したと言われており、定説っぽくなっていた。
だが、十三湊遺跡を発掘した限り、津波の痕跡が無い。
つまり十三湊は津波で荒廃したのでなく、人が短期間で居なくなり、飛砂に埋もれた…と、説が変わっている。
先に述べた繁栄の後、十三湊安東氏は突然終焉を迎える。
日ノ本将軍安東康季が栄光もここまで。
南部氏の侵攻により、蝦夷ヶ島への脱出が二度、領地回復を狙い津軽に戻るが病に倒れ…
その子義季も南部氏との戦で自害、十三湊安東氏宗家の血統は途絶える。
同時に、その安東宗家を滅ぼした南部氏…
これだけの利便性を持っていたであろう十三湊を、全く利用した形跡も無く、かといって焼き付くし使えなくした痕跡も出てはいない。
現状は、どう人々が居なくなりどう飛砂に埋もれたのか全くの謎。
現状残された手掛かりは、
①山王坊ら近隣の寺社が、安東康季が北海道へ脱出する際に皆帯同した伝承…
②北海道の数ヶ所に安東康季に連れ立って渡って来た事で町が起きた伝承…
この合致した伝承二つ。


そしてこの後、侵攻に成功した南部氏は、自ら達の傀儡にする為、義季の従兄弟である師季を擁立するが…
この人物こそ、南部氏に先に奪われた田名辺で、南部氏への蜂起をした人物…
そう、北海道に縁の深い、後の「安東政季」。
そして、この時の安東政季の同志が「武田信広」…
蠣崎(後の松前)氏中興の祖と言われる人物。

更に安東政季は、武田信広を北海道に残し、自らは秋田の檜山(能代)へ渡り、南部氏に奪われた安東領復活と再起を掛け、檜山安東氏を起こす。再び北海道と秋田の繋がりへ…
子孫であり、再び日ノ本将軍を名乗る安東愛季は、北海道らの物と思われる品々を織田信長ら諸大名へ送っているので、この戦国の世でも、北海道と東北の繋がりは途切れてはいない。

我々は、この辺の十三湊の状況や前後の人脈を鑑みて、安東氏と南部氏の抗争ら背景を無視出来ないと考える。むしろ、中世北海道史を紐解くには、安東氏や南部氏の考え,視点が絶対に必要になると考えている。
一つの古書や一つの遺跡で垣間見れるものではない。
色々な古書の付き合わせや港の特定,物流ルートの解明が必要になる。簡単に出来るものではない。
安東氏をキーにして、時の権力者や都や天皇すら繋がりを持っていたのだから。

それらは、全くこれからの課題…