オカルトの話?
どうだろう?、もちろん歴史の話です。
筆者はずっと気になっていた事がある。
江戸期も1800年前後に松前藩は、北海道中の寺社を片っ端から直している節がある。
寺歴不明と言う寺があるのも驚愕だが、不明の先に、その頃に建替え記録のみ残るケースは、ネット検索でも寺一件毎見ていけば理解可能。
疑問を持った時に、ある方から「菅江真澄」の紀行文にヒント無いか?アドバイスを頂き、図書館に行くも古文で読めず。
そこで、お茶の水書房 菊池勇夫著「菅江真澄が見たアイヌ文化」…こちらを手にしてみた。(この本についてはメモ書き紛失で、これ以上の詳細解らないので、読みたい方は検索してからを薦める)
菅江真澄は1788~1792に松前に渡って、紀行文「えみしのえさき」と「えぞのてぶり」を残している。
菊池氏の著書では、主に「えぞのてぶり」から有珠善光寺について解説しているが、付随して「新羅之記録」から有珠善光寺の阿弥陀信仰についての解説もしている。
内容的には、要約すると下記の通り。
有珠の入海は松島に劣らない。
往古には数百家の「人間」が住み、善光寺如来旧跡(阿弥陀堂?)がある。
半月過ぎの夜に鐘や念仏を「夷」が聞いていて、それを聞き付けた松前慶広が1612年に詣でて如来堂(阿弥陀堂)建立…
とある。
「新羅之記録」では、アイヌの人々を「夷」として表現している。
だが、ここでの記載は「人間」と「夷」…
それぞれ使い分けている。
この「人間」なる者は、アイヌの言う処の所謂「和人」と言う事になる。
菅江真澄は官寺になる前の有珠善光寺に参拝しており、松前慶行の阿弥陀堂と円空作の観音像二体を奉る観音堂が有り、阿弥陀堂では、百万遍の様な念仏を見ている事が「えぞのてぶり」では記載されている。
その段階で、有珠善光寺や周辺は景勝地や修験者の北の霊場になっていた事を合わせて記載している。
つまり、これを鑑みるに、松前慶広公がしっかり把握出来てない信者が、江戸初期にそこに住み生活していた事になる。
江戸初期迄、阿弥陀信仰は続けられ、周辺に住む人々が生活し有珠善光寺を守っていたと言う事。
菅江真澄が見た、阿弥陀堂に納められた「すすけた紫銅の阿弥陀」とは、古来から受け継がれた物かも知れない。
先にも書いた様に、有珠善光寺が縁起通りだとすれば…
9世紀に、慈覚大師をもてなし、その教えを聞き、そこにお寺を建てる財力を持った人が居たと言う事。
それが朝廷の者か?現地に住む者か?は「解らない」。
が、資本持つ者が居なきゃ寺は建たないし、その後、檀家があるからこそ現代まで続いている訳だ。
当然、有珠善光寺の寺伝では、アイヌに念仏を教える為にカナのお経を準備した様だ。
版木が残されている。
ただ、夜に祭祀する…
ここに引っ掛かり、例えば隠れキリシタンや隠し念仏衆、十八夜観音信仰らにそんな風習があるか当たっていた…が、無い。
鬱々としていた。
何気にTwitter上の会話で、ある方からヒントが飛び出した。
「庚申構」…道教由来で、申の日の夜に神仏を祀り、徹夜で行う講の事の様で、山王信仰の元となる。
夜にやる講はあった…しかし、筆者が着目したのは、そこだけではない。
山王信仰…
実は、十三湊安東氏に帯同した山王坊ら寺社の集団、特に山王坊は山王信仰系らしい。
実は山王坊遺跡には、現在も日吉神社があり、山王信仰系を守っている。
更に有珠善光寺は、阿弥陀如来を奉る浄土宗系。
十三湊安東氏は山王信仰系を庇護しただけでなく、自身らは浄土宗系の「時宗門徒」である事が、十三湊一帯の調査で解っている。
この辺からは仮説レベル…
仮に十三湊安東氏の人々が、有珠善光寺付近に住んでいたなら、阿弥陀如来と山王権現を奉り、「庚申講」を行う可能性はあるのだ。
勿論、断定は出来ないが。
「新羅之記録」から読み取れるのは、アイヌ文化を持たずに、有珠善光寺付近に住む門徒が居た事。
この段階で、この場では共存していたと考えられる訳だ。
勿論、ここ有珠善光寺のある地域は、東蝦夷地…
所謂和人地では無い事も付記しておく。
さて、一部疑問については、解く鍵が得られた。
だが、松前による寺社建替えは?
まだ謎は残る。が、ある集団が大量に居れば、それへの仮説を立てる根拠はある。
それは…?
これは、また別の機会に…