アイヌ酋長は刀剣も持つ…中世武具の謎-その2

義経伝説とアイヌ酋長の至宝」の項で、刀剣についても少し触れた。
この「北海道留萌市出土の星兜鉢および杏葉残欠について」の論文は、隅々迄読むと実に興味深い事を教えてくれた。

そこで触れた、兵庫鎖の部分を抜粋引用してみる。

「甲冑を含む武具は、多くは武門の家に伝来する性質のものである。特に大鎧、兜等は武将クラスの着領と考えられ、一般の雑兵が身につける事は不可能である。特に、余市町栄浜遺跡出土の菊丸文兵庫鎖などは、武将が直接渡来したと考えてよさそうな遺物である。」
との事。更には、これに註釈がついており、
鶴丸文兵庫鎖は、熱田神宮蔵の「金銅兵庫鎖太刀」に酷似しているという。」
と、松下亘氏の見解を紹介している。
検索頂けると直ぐに出るが、重文。

https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kougei/kunisitei/0419.html

こんな感じで、余市出土品はこの鎖の周辺のみの様だが、詳細不明。
しかも、この手の兵庫鎖太刀はほぼ神社に奉納されているらしく、実物を持つ人物が居れば、ほぼ武将と言う見解も納得できる。
太刀が同所から出土していないが、これだけでも十分貴重な物だと理解出来よう。


又、違う例も紹介しよう。
これは、「経塚出土腰刀の一形式に就いて」 と言う末永雅雄氏の論文からの抜粋引用。
腰刀について。

「前略~いま私が主に取引ふものは、年代的には少くとも鎌倉以前に、その上限を有すると観察され得るものであり、従って従来知られてゐた腰刀よりも、可なり遡るべき年代観を以て観察することの出来る所の経塚遺物である。」
「五、北海道雨竜郡妹背牛村四號川三線出土腰刀。現存全長八寸八分(二六.七厘)刃長さ六寸二分(一八厘)及び太刀 伴出遺物-胴丸鎧鐵具、杏葉、銛等」
「その一つは、先年北海道に於て発掘されたアイヌの墓地に得た所の腰刀がそれである(挿圖第四)」
「第四圖上部の腰刀の傍の矢の示す部分は黒漆を施した所の脛巾部である。同圖下は伴出の胴丸鎧の杏葉と太刀の目貫及び鍔の部分である。太刀の目貫は杏葉の菊座金物に比し稍〃年代が下降するが如くにも考へられるけれども、杏葉に至つては現存する杏葉の最古の形式(南北朝初期)よりも遥かに年代の遡るべき察知せしめ、鎌倉時代の絵巻に表現さるゝ杏葉の形状と相俟つて恐らく現在知られてゐる杏葉中の最古の形式を示現するものと思ふ。」
「経塚に埋められた事が、この腰刀をして宗教的儀祭の雰囲気の中に取入れるけれども、事実に於ては當時実用兵器としての存在をはつきりと認識すべきであると私は思ふ。」

論文自体は、日本全国にある経塚から他の出土品と共に出土した腰刀つまり短刀や合口の類いを紹介比較した物。
北海道の例は、アイヌの酋長の墓から出土しているとの事。
他の武具の傾向より、平安末~鎌倉期の物と特定している。
飛んでもない物が色々とあるのだ。

さて、「アイヌの墓地」とされたこの遺跡は何処?
雨竜郡妹背牛村では遺跡指定がない。
よく解らない。何故だ?
現物は、この時点で、帝国博物館に所蔵されていると記載ある。

この手の武具や刀剣については、ベールの中である。
実際、ネット検索しても中々ヒットしないし、その逆、論文にある武具,刀剣から遺跡を特定しようと思ってもヒットしない。

アイヌ文化の創成は未だに謎。
それも、擦文文化の終焉と絡む為に中世に鍵があるのは明らかなのだが、その点謎だらけなのだ。

再び言う。
皆の意志さえ集められれば、見る事は可能なハズだ。


参考文献

考古学雑誌 第71巻第1号 「北海道留萌市出土の星兜鉢および杏葉残欠について」
福士廣志 1985年9月

考古学雑誌 第二十三巻「経塚出土腰刀の一形式に就いて」 末永雅雄 昭和八年