https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/18/055912
さて、一連の「キリシタン」の件…
当然ながら調査は続けている。
一連のツイートをご覧頂ければ。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1266225440139571201?s=19
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1267201692056948738?s=19
江戸期の鉱山の話有らば、聞きまくる…
これがもっとも最短であろう。
1700年…荒川(尾改沢)鉱山開山…
キリシタン痕跡は無し。
特に荒川鉱山の方は、以前角館でキリシタン墓跡を見た事があると言う方からの発言。
無い可能性が高まる。
秋田県史によれば、
1615年に武家諸法度制定…
1621年には改宗激化…
1624年に所謂大処刑…
1664年頃に切支丹改宗役を置く事に…
1666年に嘱託金制度(摘発者への褒美)発布…
この辺で、宗門調べの法制化が完成してきたのだろう。
よって、転ぶ(棄教)するか完全に潜伏化するかしてきたと考えられる。
改めて開山年号と合わせると、友子制度はあるが、キリシタン混成の痕跡が消えるのも納得である。
荒川鉱山には、「遊郭」さえ無かった様だ。
もうそれだけオープンに開山していた証左。
こうやって時系列で並べてみると、
キリシタンネットワークが先行して完成…
その中の福祉&技術流出防止システムとして友子制度が出来上がり…
キリシタンネットワークが消え去る事で友子制度のみ残る…
こんな図式が見えてくるのではないか?と考える。
そのターニングポイントは、1700年より少し前の時期。
この時期は所謂鎖国らも完成し、江戸の庶民文化も開花していく。
文化も大きく変わる時期でもあり、戦乱で荒んだ心を宗教で癒す必要も無くなってきた…そんな考え方も出来るかと思う。
さて、荒川鉱山に近い大仙市協和には、江戸期より前に開山した鉱山もある。
一例は1591年開山の檜山安東時代からの「畑鉱山」。
これはどうなのか?
畑鉱山は、1691年に大規模落盤事故が発生。約8百人と思われる砿夫達はほぼ全滅。
事故現場からは7日間赤い水が流れていたと伝承される。
痕跡を追う事は不可能。
以上が、概ねの続報である。
一応、キリシタン取締の時期と鉱山痕跡との整合で、ターニングポイントが見えた事は収穫だと思う。文化もそうだろう。
つまり、1700年前後で北海道も同様の動きはあるであろうと言う事だ。
そう言えば「シャクシャインの乱」は1669年、元々は部族間の砂金場の揉め事から始まるとか…
この時は金堀が処刑されていた。
東北の鉱山の動き、キリシタン弾圧の動き、それらの時系列で並べれば…全て符号する。
なら…そう言う事だと、言えるのではないか?
それなら、部族間の調停に当初松前藩が乗り気では無かったのも頷ける。
メンバーとの話では出る事があった。
島原の乱の天草四郎は、誰の援軍を待って籠城戦をしたのか?
籠城戦は、誰か援軍が無ければ勝利が成立しない。攻め手側が包囲を解く必要が無いので、守り手が完全に干上がる迄包囲を続ければ良いのだから。
スペインやポルトガルの介入…そんな話はよく出る。
が、仮に、シャクシャインの乱がそれであって…島原の乱と同時期に勃発していたらどうなるのか?
当然、畿内らに居る幕府に不満を持つ勢力も蜂起してもおかしくはない。
そこへスペインとポルトガルの援軍…
平穏な江戸期は無かったハズだ。
幕府の禁教令が厳しくなり、たまたま受け皿として北海道と東北が機能したので、こんな歴史の流れになっただけ…とも、考えられる訳だ。
むしろ、その図式は現代に出来てはいないか?
単純にキリシタンを別の勢力へ置き換えるだけだ。
沖縄には基地反対派が入り込み、北海道の土地は外国人に大量に買われ、畿内は?
我が国は、簡単に分断されるが。
歴史に学べば、そんな戦略も有り得ると思い付くのだが。
歴史の学習は先人から教訓を取り出す事。
歴史を無下にすれば、後の祭りになる。
だから我々は、歴史の勉強を開始した。
参考文献