元々「北海道開拓は江戸幕府の方針」…秋田県史に見る幕末情勢

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/19/193917

久々に秋田県史から見える「北方警備」の実態を少しだけ。
筆まめ久保田藩は、北海道でどんな事をしていたか?

「かくして蝦夷地警備のことは、安政六年九月二十七日、幕府が蝦夷地を分割領有せしめるまで同様姿勢で続けられた。」

「この警備期間に於いて、唐太島久春古丹(クシユンコタン)に、オロツコ人が来つて交易を請う事があり(三年六月二十三日)、露人の久春内、(クシユンナイ)名好(ナヨシ)(ナツコ)の中間にあるクツコチ(来知志か)に移住して石炭採掘に従事する情報があり(同年八月)又露艦が名寄(ナヨロ)に来つて同国人十七名を残して去り、これがため久保田藩の戌兵を同所に派遣して退去の交渉に当たる(四年六月、七月、八月)などの事はあつたが、特に重大な異変もなく、年々交替して警備の任務を果たしている。」

秋田県史第四巻」 秋田県編集 昭和52年4月30日発行 より引用。

ここだけ見る限りでも、既にロシアの「静かなる侵略」やオロツコ人(ウィルタ)が入り込んで来ているのを阻止する活動をしていた。
密入国者強制退却は重大な仕事だが…
ただ、この沿岸警備がパーフェクトだったか?は甚だ疑問。
何せ、警備開始に先駆けた事前調査で、割り当てられた海岸線が当初から広すぎると幕府にハッキリ伝えていた。
久保田藩の当初担当は、西~北蝦夷地一帯(伊達藩が東~北蝦夷地一帯)。
ムリムリ…
まぁ、伊達藩は「藩領としてくれ!」と幕府に直言したと県史にはある…さすが伊達さん。

1800年辺りの探索らで、随分江戸幕府もあれこれ練っていたようで、安政期には地方開発方針で、越前大野藩なんかは、わざわざ藩士を派遣して探検している記事もある。
函館港には、外国船も各藩も入り乱れ北海道入りしておる様で。
ここからも、幕府方針で北海道開拓の方針は既に知られた話だし、ロシアだけでなく、離れた藩も乗り気でガンガン調査していた訳だ。
既に、警備しきれず入り込んだ海外連中や、領土拡大で財政危機乗り切りたい各藩の人々もあちこち居たであろう。

ここだけ見ても…
現代歴史教科書の、明治の開拓期の出来事に書かれた「戊辰戦争で敗れた士族が、厳寒の北海道へ開拓と防衛に行く」なんてイメージより、幕府方針は、フロンティアを目指す気満々だ。
何せ、この段階で、幕府は馬牛が居る事、金銀銅銑鉛,石炭…全てあるのを知っていて、開拓成功者には褒美迄出すと、やる気のある人を募っていた様だ。
実際、大友亀太郎らが函館経由札幌に入り、札幌の地を開拓、「大友掘」今の「創成川」を築き初めたのは幕末。
そこに入ってきた明治政府開拓使には、自分達がやっていた開拓計画を引き渡している。
明治政府にすれば、後に「自分達が北海道開拓をやった」とプロバガンダ位する。
その辺は、現代には、正確に歴史として語るべきだと考えるが…いかがだろうか?

でなければ…
函館戦争終結、明治2年5月…
北海道開拓使設置、明治2年7月…
亘理伊達への辞令、明治2年8月…
あらかじめ、ある程度計画されていて、調査されてなければムリなスケジュールだと思いますけど。
亘理伊達氏にしても、久保田藩と一緒に文化期の頃から警備活動やっていたんだから、こんな幕府の開拓方針を知らなかったハズは無い。越前大野藩よか情報持っていて然るへしだ。


秋田県史には、古い考古学雑誌で見る古い仮名使いらも見える。戦前らに書かれた部分を補強して定期的に編纂してるのだろう。
多分、戦前は、幕末既にこんな風に開発気運ガッツリ有ったってのが、常識だったのかも。
なら「幕末の幕府方針」を消したのは誰だ?
恐らく、戦前の部分が残る、北海道に関係した各藩の県史には、多分同じ様な記載があると思う。
北海道開拓計画は、明治政府に非ず。
幕藩時代からのもの。
東北諸藩の活動も…
大友亀太郎らも…
江戸初期の「ゴールドラッシュ」に続く「幕末北海道開拓ラッシュ」も…
忘れてはいけない。全て一連の動き。


改めて…
今の教科書を単に鵜呑みにしちゃダメだ…
それぞれの県史と年号を重ねるだけで、辻褄が合わなすぎる。
恐らく、各県史にはそれらの動きはちゃんと記載されていると思うが…
少なくとも秋田県史には、ちゃんと記載されている。



参考資料:

秋田県史第四巻」 秋田県編集 昭和52年4月30日発行