https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/03/185537
屯田兵は明治政府が始めた事ではない…
これは以前報告済みである。
実はその先もあるのだが、紹介していなかった。
抜けは埋めていかねば。
ところで…
道民の方々は「御手作場」を習っているだろうか?
「幕府は前時代にすでに大いに本道を開拓する意向をもっていたが、準備が整わず、もっぱら蝦夷の撫育に務め、開拓、移民についてはきわめて消極的な態度しかとれなかった。ところがこの時代(註釈:第二次幕府直轄期)になると、機運もようやく動き、その可能性がみえてきたので、蝦夷地の警備や蝦夷の撫育とともに、開拓をも主眼とするようになった。しかも和人の堅実な移民を増加させる開拓は、南下するロシアに対抗して蝦夷地を確保するもっとも重要な手段であった。幕府が安政三(註釈:1856)年二月布達して、士族でこれを希望する者には、蝦夷地在住を仰せ付け、陪臣、浪人、百姓、町人で移住して農業その他の産業に従事しようとする者には望みに任せ、その場合に応じて手当をもつかわし、成績がよい者には、士分は身分を取り立て、庶民は地所、居住を与え、そのうえ賞賜手当などをつかわすべきことを告げ、広く希望者を募ったのは、この趣旨からであった。」
「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日 より引用…
これを前にして、道内の場所請負の全権を握る請負人が非協力的なので、安政二(1855)年に協力するよう通達したり、神威岬以北に家族(つまり妻娘ら女性)を連れて行ける様に慣習を無視したり撤廃する様に函館奉行命で通達したり、新道開削をしている。
そしてこれらで、入地,開墾した中で成功してきた場合、函館奉行が表彰の上でその事業を官営に移した…
これが「御手作場」。
当初は前項の通り、なかなか士族が集まらなかったのも事実。
が、安政二(1855)、庵原函斎の亀沢村字亀尾を皮切りに、赤川村字石川沢(亀田町)、岩内場所の幌似、発足、長万部付近字栗木垈ら、開拓で好成績を上げる場所が出て来た為、それらを「御手作場」として官営化する。
後、二宮尊徳門弟がこれらに参加(尊徳は高齢で固辞)、七飯町や木古内村にも拡大。安政六(1859)には石狩原野に篠路村へ拡大。
そして、官製開墾場たる「御手作場」のトリを飾ったのが慶応2(1866)に、大友亀太郎により拓かれた、石狩原野の元村。
これこそ、明治に入り改名され「札幌村」
となる。
道庁所在地「札幌市」の原型誕生である。
大友達が掘った水路「大友堀」が、その後に開拓使により伸ばされ、現在の「創成川」になっている。
実は「札幌市」の原型が、明治政府の開拓使より古いのだ。
これを忘れてはいけない。
勿論、こんな官営開墾場の他にも、個人で許可をとったり、警備に入った諸藩らベース、場所請負の延長上で進められたり、移住や開拓が行われており、場所規模の所謂「部落」から村格となり正式に「村」として成立していったところもある。
小樽内、余市、石狩、山越内、長万部etc…
これらがそうだろう。
まだある。
「なお、この時期において注目すべきは、拓殖を推進するための一種の労働力として、函館奉行が罪人を炭山および漁場に使役したことである。函館開港にともない、寄港外国船の石炭需要に応じるために、函館奉行は安政四(註釈:1857)年奉行所手付の栗原善八を掛りとして、白糠炭山を開削させることにしたが、これには江戸から連れてきた鉱夫と募集した人夫のほかに、箱館あたりで罪を犯して追放刑になった者、江戸から流刑人として送り込まれた者、および無宿の身持ちの悪い者などに入墨をして、夫人足という名で使役した。しかし、白糠炭山は炭質が悪いために、四年後の元治元(一八六四)年には廃坑になってしまい、またその前年に幕府が岩内付近にあらたに開発した芽沼炭坑でも夫人足を使役したが、これも崩落事故などがあって、一年余りで中止となってしまった。」
「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日 より引用…
この炭坑で起きる余剰人員らは、臼別寄場等、囲いが合ったり離島の漁場,人足寄場らで使役、明治二年まで継続された。
何処かで聞いた様な話では?
受刑者を苛酷であろう使役に当たらせる事は既に幕府が行っていた。
上記の通り…
希望者を入植させ、御手作場や場所の拡大、警護諸藩の陣屋,運上所を核とした拡大により「部落→村格」とし、現在の主要都市の種を作っていたのは幕府。
屯田兵として諸藩警護のバックアップを図っていたのも幕府。
そして…
この「帰俗方針」の第二次直轄の記載が、これら移民政策と時代的に符合する。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
撫育や介抱と称し、懐柔政策,同化政策を始めたのも幕府。
明治政府,開拓使は、それらを踏襲,拡大したとも言える。
ある意味当然。
何故なら、これら政策のスタートラインは、南下するロシアへ対抗する安全保障上からの対応であるから、変える必然性がない。
脅威がより高まる中、明治でそのプロジェクトを大規模に実施し、最後のピース「戊辰戦争,西南戦争」後の士族の移民へ向かっていったと見えないだろうか?。
江戸中期に約5万と報告された北海道の人口は、幕末の安政の頃には既に倍の約10万、半土着出稼ぎ人や蝦夷衆を含めると12万を下らない人口になってきていたと、新北海道史にはある。
だが、これらの元数字は、
①キリシタン宗門改の強化過程の寺による人口把握
②運上所からの使用者報告
この辺からの換算によるのだろう。
つまり末端,辺境地域においての人口を正確に把握出来る形にはなっていないとも言える。
安政→明治で、約12年程度しかない。
また、第一次幕府直轄迄がこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/20/185453
ここから安政まで約50年。
この段階では、上記通り、場所請負人に丸投げ状態だったのだから。
明治政府が焦り加速したのも頷ける。
移民や同化政策は、手段に過ぎない。
最大の目的は、迫り来る脅威に対する「安全保障」なのだ。
大政奉還で政権が変わろと「目的」が変わらない限り、大枠は変わるハズもない。
これらを進めたのは「明治政府に非ず」と言う理由はこれ。
「赤蝦夷風説考」らにあるカムチャッカやシベリアに居た「赤蝦夷」の人々がどうなったのか?は、「サハ共和国」らを検索してみると良い。
wikiではあるが、ロシアと軍事同盟を組む段階で植民を受け入れた処からロシアに飲み込まれてしまった様は、それだけ見ても想像可能。
この「赤蝦夷」の一部が、自らの先祖は日本人だと名乗っている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
これらを時系列で並べるだけでも、何となく流れが見えてくるのでは?
古い時代から時代を下れば、流れは見える。
改めて書く。
「安全保障上の問題」への対応は江戸幕府により開始されており、「明治政府に非ず」。
史書を並べ直すだけでも流れは見える。
参考文献:
「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日