この時点での公式見解⑮…「屯田兵」も幕府方針で開始

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/30/194418

飽きもせず掘る。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

この辺が関連項か。
明治政府の開拓使より、江戸幕府が先んじて北海道の開拓方針を示し活動開始していた。
ならば他には?


「前時代の例にならって旗本、家人の次、三男、厄介、そのほか陪臣、浪人などで役に立つ者を蝦夷地に在住させ、屯田農兵の遺制により、兵農相兼ね、文武を講じ、筋骨を鍛練させるならば、蝦夷地の防備に役立つことはいうまでもなく、また募兵の衰弱を防ぐ一端にもなるであろうことは、安政元年十二月、堀利熙、村垣範正が、松前蝦夷地惣体見物仕候見込之趣大意申上書ですでに論じていた。」

「前略~口蝦夷地に六百人を在住させ、そのほかに農兵を取り立てて非常の警備に充てたい述べ、~中略~と指令した。」

「同年七月利熙は在住の身分手当などを調査し、目見以上、以下とも禄高五百石までを限り採用することにし幕府に稟請したところ、十二月、まず二百人を精選して移住させる見込みで取り計らえとの指令があった。」

「在住の出願は、安政三年八月高橋三平ほか十四人を最初として、漸次増加したが、ついに予期した数に達せず、文久二年現在、目見以上二十二人、同総領、次、三男、厄介十九人、目見以下十六人、同子弟厄介四十一人、清水村の者一人、陪臣十四人、浪人三人、合計百十六人にすぎなかった。これらの人々は多く石狩以南に土着し、ことに箱館在七重村、石狩場所発寒(今の札幌市琴似町の内)、室蘭場所室蘭には、部落をなしてあつまっていた。」

「しかし在住はその性質上、平素は開墾その他の実業に従い、あるいは公務に服し、事があると警衙の任に当たるものであるが、その数が少なかったため、警衙上の意義はほとんどなかった。」

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…


この後、数はそれなりには増えたであろう。
何せ、札幌で大友堤を作っている。

ここまで書けば解るだろう。
所謂屯田兵さえ、幕府方針です。
そして…
この段階で、札幌や室蘭の基礎になる街作りは開始されている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333

更に、実際にどうであったか?
北海道大学附属図書館が発行した「明治大正期北海道写真集」には、明治四年現在の札幌,室蘭の写真も収められており、既に家々が並んでいたり、街並みの原型がありや建物建設の為の材木を並べていたりしている。
そして、大友堤は一ノ村新堀川とされる写真がある、既に橋が掛けられ。

箱館戦争終結は、明治二年と言われる。
その後開拓使が入り、原野を開墾を二年で完了し、建物建築する…どう考えてもそれが可能とは思えないが。
むしろ、完成はしなくとも、交通網を作り先に街が出来ていたと考えるべきでは?
と言うか、北海道大学構内からは擦文期の遺跡が発見され、墨書土器ら朝廷と関わりがあろう痕跡がある。
中には、秋田城から搬出されたであろう秋田新城窯で焼いたと特定された須恵器迄ある。
誰も住んで居なかったのがおかしいとも言える。

如何だろうか?
札幌や室蘭は明治政府が作った訳では無い。
最低でも幕末に幕府が作っている…最低でもだ。

とはいえ、明治政府の偉業が薄まる事も既に無い。
幕府方針を拡大強力に推し進め、国家予算を注ぎ込み現在の北海道の原型を作ったのだから。
幕府がやった施策にも、もう少し目を向けたら良いのではないか?と言うのが、筆者の考えである。
正確に歴史を追えば、ムリに明治政府「だけ」の手柄にする時代ではない。

まぁどうしても…
明治政府の開拓方針にしなければならぬ方々も居るようだが…
で、この幕末段階では、幕府や分割統治した東北諸藩と、蝦夷と言われた人々やアイノ文化を持った人々との間にトラブルの話は記録されてはいない。
新北海道史と写真の年代は、合致すると考えても良いだろう。
なら、東北諸藩の記録と合わせ、この時点で、トラブルな無い、と、言う事。

「明治大正期北海道写真集」ら写真と、それぞれの言い分を整合してみれば、裏付けは取れると思うが…やっているのかな?
記録用写真は、弄り様が無いのだが…


参考文献:

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日

「明治大正期北海道写真集」 北海道大学附属図書館 1992年3月30日