https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/17/193803
さて、筆者の「竈」探しも、「時間は作るもの」のキャッチの如く、回を重ねている。
まずは実物から情報を得ねば、調べる術もない。
ここ数日のフィールドワーク結果三件は下記の通りである。
三種町、琴丘町歴史民俗資料館
「三種の館」
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1284401527717691392?s=19
三種町内で使われていた曲屋。
明治初期築と伝わる。
こちらは近年迄使われていたのか、土間に「文化竈」が設置されていた。
「旧金子家住宅」
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1284768028287094785?s=19
こちらは秋田市大町、幕末からの商家。
屋内土蔵前の土間に、二連の「竈」が設置されていた。
焚き口付近のレンガ以外は昔の物との話なので、土(砂混じり?)で成形した物。
「旧黒澤家住宅」
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1284786551289819137?s=19
江戸期(18世紀初期)の上級武家屋敷で国指定重文。ここではデドコ(台所)が板張りになっており、流しと隣合わせに土で成形した二連の「竈」が設置。
土には藁?が混ぜられていた。
以上、生業による三種の住宅の「竈」を見る事が出来た。
特に「旧黒澤家住宅」は18世紀初期のまま。板張り上の流し,「竈」は初めて見た。
それぞれのデドコ(台所)を見て想像出来る事…
奥方に居た人々の動きが想像出来る。
手早く作業を進める為に、最大公約数的な「合理性」を持っている事。
農家の場合、山菜を煮たり、農作業の延長での使用を考慮して、馬屋等にも近付けた土間へ。
商家の場合、使用人らの食事らも作っていたで有ろう事。
武家の場合、居住する人らの食事が殆どで有ろうから、流しと隣合わせでコンパクトに。これは、江戸の昔を伝えるネットで散見される町屋の「土間で流しと竈が隣合わせ」に近いコンセプトなのだろう。
複数作業を同時進行、パタパタ動く人の動きが想像出来る。
でも、それは当然なんだろう。
台所こそ、究極の作業場なのだ。
食わねば生き延びる事は出来ないし、家族団欒の大黒柱なのだから。
そこを預かる「政所」の合理性が考慮され進化せぬ居住設備なぞ有ろうハズも無い。
我が国は悠久の歴史で繋がる国。
文化も継続性を持つのだから。
だが、板張り上の作業スペースには驚いた。
もはやそれもあり。
これなら遺構に「竈」の痕跡なぞ、残るハズも無い。
そんな事例も有ったと言う「物証」。
が、これで土間に拘る事からさえ、解放された。
つまり、合理的な位置へ設置出来るのである。
流し等との配置で、作業効率の良い場所に置ける。
それも、土であろうが石であろうが、自作又は石工や職人が作った物を設置出来たのだ。
奥方の意見、現代なら主婦目線で効率を上げる事。これこそが「答え」なんだろう。
建築した大工が、それを反映させぬハズなんかないのだ。
これで、材質も手段もコンセプトも見えてきた。
これらを踏まえ、作ったであろう人々の話や記録、そして「物証」へ至れば、中世「竈」の謎は、解明出来る。
機動力と自らの眼は武器になる。
そして、それは北海道~東北の関係史に反映される。
「竈」文化は、朝廷と繋がる文化。
揺るがし様が無いのだ。