「再現チセ」の矛盾…新北海道史に描かれた「チセ」を「余市」と「竈」で考察

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

せっかく、引っ掛かりを持ったのだ…我々なりの視点で、新北海道史に描かれた「チセ」の状況を検証してみよう。
勿論、これば入口の断片である。
こんなスタンスで近世~近代のコタンの状況を全て調べてみなければ、結論なぞ出はしないのだ。
そこを考慮願いたい。


「屋内に湿気を受けないために床を張ること」
「死者のあるとき家を焼き払うこと」

「新北海道史 第二巻通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

この二点の記載が新北海道史に記載されている。
周辺をみ読む限り、元々の「チセ」には床が無く、衛生面か湿気を防ぐ意味で、幕府の指導で床張りにする事が奨励された。
又、死者が出た時に「チセ」を焼く風習はどうなのか?
実はSNS上の検討では現代再現された「チセ」に床が張られた事例がある。
「静内資料館」「最上徳内資料館」…
そして、「旭川資料館」が土間。
記載そのままなれば、
安政の御触れより前…旭川
安政の御触れより後…静内等となる。
ここで火器は、
静内等…床上の「囲炉裏」
旭川 …土間の「地炉」 である。

ここで、今迄調べて来た「生きていた証」シリーズ、「竈」が活きてくる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/29/200734

この点は「考古学の限界」でもあるのだが…
要は「竈」の原理も真逆である。

地炉…
地面に対し堀り込むので、遺構が残る。
囲炉裏…
床に設置するので遺構は残らない。

となる。
わざわざ、土間に「囲炉裏」を乗せる必要が無いのだ。仮に残らないなら、床が有った事になる。
つまり、「地炉遺構」が無ければ安政の御触れより前の「チセ」の再現にはならない。
この時代背景を表示しないと混乱を生む。
まさか、幕府の御触れで奨励,指導された「チセ」を再現しても伝統再現には、ならないので。

と言うことで、たまたま、手元にあった余市の「大川遺跡」で検証してみよう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
「1993年度大川遺跡発掘調査概報-余市川改修事業にともなう埋蔵文化財発掘調査の概要Ⅴ-」 余市町教育委員会 1994年3月 「Ⅲ結び a小括」…これの建物跡を追ってみる。

擦文期…
建物跡は71…特に鍛治跡遺構が残る物と隣には燃えた跡あるが、火災と考えられている模様。火器は「竈」遺構有り。
中世…
建物跡は無し。
近世~近代…
建物跡は近世に1、だが、礎石が290検出され、建物が有ったと考えられる。
火災跡は無い模様。火器の痕跡は無し。
が、近代に至り50基の石組炉跡有り。

以上である。
仮に、安政前後で土間→床張りとなるなら、礎石周辺に床を張る前の「地炉」跡があるハズだが…無い。
地炉、と言うか、石組炉跡が出現するのは近代で、現状それらは明治~昭和の物とされている。
であれば、近世、具体的には江戸期辺りに住んでいた人々は何者なのか?…と言う事になるのだ。

さて、考察。

①,何らかの理由で居住区廃絶した地に、別部族が入った…
この場合新北海道史の記述と矛盾しないが、アイノ文化集団は余市では明治以降に後住した事になる。

②,既に何らかの理由で、ここでは床張りに住んでいた…
それならば新北海道史の記述と矛盾する。ならば住居文化的には近世で既に同化していた事になる。文化に地域差があるのだ。

③,そもそも「チセ」の再現において時代考証が甘い…
①②の結果を見る限りではこうなる。
近代の状況だけから「チセ」とはこういうものだと断定し再現していると言う事。
我々が調べてきている様に「再現チセ」からは生活臭がしない。地域の独自性や時系列の流れが再現がされていない事になる。

これらを見ても、複数の文化集団が時代時代で存在するが、余市では本州に近い文化を持つ文化集団が擦文期~近世に居て、周りの別文化集団がそれに同化したのが、他の地域より早い…これが最も種々条件を満たすのではないだろうか?
石組炉の出現が明治である事から、これが仮に開拓者の物だとしても、既に住居文化的に同化していた事とは矛盾しない。
更にそれは「死者が出た時は家を燃やす」と言う風習の痕跡がここには残っていない事も合わせてである。
西蝦夷地と東蝦夷地では文化が違うと言う事だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050
奇しくも、この話と整合性が取れてくる。
アイノ文化集団が確立する前から既に、本州に近い文化集団が余市に暮らしていた証左。
アイノ文化集団は後発になる。
それも、新北海道史の記述に忠実なら、アイノ文化集団又はそれに近い文化集団が余市に入ったのは、極近代の明治辺りから…と、言う事だ。
つまり、本道アイノ文化集団と、樺太,千島交換条約らで北海道に来た樺太アイノ文化集団をごちゃ混ぜにしているのかも知れない。


改めて念を押すが、これは入口に過ぎない。
我々の様なド素人ですらこの程度の問題提起は可能だ。
他の居住区遺跡との整合性を調べていけば、解明は可能であろう。
やろうとすれば簡単だ。各資料館へ問い合わせを入れ、火器と火の跡を回答貰い纏めるだけ。
我々も事ある毎に調べるが、やってみる事をお勧めする。これだけでも論文が書ける。


火器の変遷はあまくない。
食文化や他の民俗文化と直結する。
「置き竈」が出土したのは、ここ余市である事をお忘れなく。


参考文献:

「新北海道史 第二巻通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日

「1993年度大川遺跡発掘調査概報-余市川改修事業にともなう埋蔵文化財発掘調査の概要Ⅴ-」 余市町教育委員会 1994年3月 「Ⅲ結び a小括」