では、安倍姓安東氏はどんな人達?…秋田家家系図を追う

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/192830

と言う訳で、前項ではそもそも、安倍姓安東氏のスタートラインを紹介した。
安東氏の家系図は前述の通り、幾つもあり学術的にどれが正解なのか?なぞ「解らない」のだ。
だが、少なくとも、直系宗家である秋田氏がこう信じる…これが秋田家家系図
なので、バックボーンとして、安東氏とは何者なのか?何故安東氏が安倍氏なのか?と「考えていたか」が解らないと、俘囚長と言われた事も、日ノ本将軍と言われた事もも理解不能
なので、能代市史掲載の「秋田家系図(秋田家文書)」で、安東氏とは何者か?を辿ってみる。
前項の安日・長髄彦の故事からスタートして、では、何故「安倍姓」になるのかを引用してみよう。

崇神天皇の御宇に東北の夷狄動もすれば日東の地を侵凌す。ゆえに安倍の将軍、河別命をしてこれを追伐せしむ。しかりといえども夷狄強大にして官軍数度利を失う。時に安東出でて将軍に言うして云く、我は安日王の子孫なり。昔年に勅勘を蒙りて、北海の狄となる。今この罪を赦しなば、我易く逆徒を追討せんと。将軍もって奏す。勅許ありて安東をして追伐せしむ。安東強性勇猛にして騎射神変なり~中略~彼の軍功を賞して安倍姓を賜いて、…将軍と同姓となしたもう。安東、始めは安日を姓とす。この時、日の字を改めて倍の字となす。それよりこのかた安倍と称す。また将軍の印を賜りて、東北の夷狄を守り防ぐ。」

能代市史資料編中世二」 能代市史編さん委員会 平成十年三月 より引用…


先祖は長髄彦の兄「安日王」。
津軽外ヶ浜へ追放された安日王の子孫が「安日」を名乗っていた。
で、四道将軍たる建沼河別命の元に参陣し、勅勘の赦しと参戦を願い出る。
ここで武功を上げて安倍姓を貰った…これが、陸奥安倍氏の由来。
建沼河別命は、あの「阿倍比羅夫」のご先祖になるので、これら故事は、阿倍比羅夫の北進より前の話。
当然、阿弖流為ら奥州37年戦争より古い。


さて、その後は?
では家系図の「国東」の項。

「一条院の御宇に蝦夷発向して日本の地を侵凌す。この時国東松前に渡りて、土率分けて、上道、下道に向かう。蝦夷、海水を走ること魚の淵に飛ぶが如く~中略~国東謳えらく、彼が弓矢甚だ妙なりといえども、その至ること数百歩に過ぎず。強弓我が弓矢はその至ること五百歩の外にして、鉄石も破壊すといいて、強弓精兵をして、しきりにこれを射さしむ。蝦夷勝つことを得ずしてことごとく敗北す。~中略~ここに於いて国東、彼を赦して狄地帰らしむ。それよりこのかた三年に一度、必ず土産を持って来たりて国東に献ず。敢えて侵凌するの意なし。」

能代市史資料編中世二」 能代市史編さん委員会 平成十年三月 より引用…

この一代前が、安尭。「悪事王」と言われて坂上田村麻呂に射たれたと言う。
で、国東の孫が俘囚長である安倍頼時、その息子が貞任,宗任兄弟。
前九年の役源頼義,義家親子を危機に陥れるも、清原頼光,武則兄弟の参戦で安倍氏は滅ぶ…が、宗任の息子「光星」が生き延びて藤崎に脱出。
この光星の孫である貞秀が「安東太郎」を名乗り、更にその息子「安東尭秀」。
ここで鎌倉期、幕府二代執権北条義時の命で蝦夷管領の任に着く。

この後に勢力拡大して、現青森県全土を掌握して、その拠点を十三湊に移していき、隆盛を極めていく訳だ。
後、蝦夷争乱や南北朝で身内争いしながら、十三湊安藤の安藤盛季,康季親子の代で日ノ本将軍を名乗るに至るが、南部氏の侵攻で二度の嶋渡り後、十三湊安藤の直系宗家は滅ぶ。ここが概略1450年頃。

そしてそれに先んじて、盛季の弟である鹿季が、秋田へ侵攻し湊安東をお越し、更にその弟道貞(重季)の子である政季が、南部に後押しされ、下国安東太朗を名乗り南部に反乱をお越すが敗れ、蠣崎若狭と相原周防を従えて北海道へ…
もう、この辺になれば、よくみる北海道史へ連なるだろう。
この政季が檜山に入り、下国(檜山)安東をお越して、再び日ノ本将軍を名乗る安東愛季へ至る。
かなり壮大な物語。

権力者が現れた時に、夷狄を従え現れると言ういささか都合よい解釈ではあるが、正しいか間違いかは別にして、夷狄を統べて来たと言う所は安日王以来、一環している。
これが、秋田実季が編纂し、秋田氏が伝承してきた歴史認識
これだけは間違いが無い。

バックボーンとして、この夷狄を統べる…ここが大事な点なのだ。
だからこそ、新北海道史らでは、あまり安東氏を語らない。
そう、蠣崎氏が蝦夷を統べたのではないのだ。
安日王の直系子孫たる「安東氏」が蝦夷を統べたから。
この系譜を見れば解るだろう。
こんな「権威」無くしては、誰も従う事はしない。
これが大殿の系譜。
で、蝦夷衆はそれを知っていたから、安東には従う…と、言う事だ。


参考文献:
能代市史資料編中世二」 能代市史編さん委員会 平成十年三月