https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/02/183834
「最新刊ではどうか?…「奥羽武士団」に記述される「陸奥安東氏&出羽秋田氏」」…
本ブログもとうとう500項を数えてしまった。
丁度節目なので、ブログを象徴しそうな何かを記念に…などと考えても範囲が広過ぎて象徴もなんも無い感じ。
ならばと、この際は「宿題」をやろうと思う。
安倍姓安東氏「秋田氏」のその後である。
前項を含め安倍姓安東氏の難解?な通史は紹介してきたが…(諸説あり)
②前九年合戦で陸奥守,鎮守府将軍である「源頼義,義家」親子を壊滅寸前迄追い込んだ「安倍頼時,貞任」親子の末裔…
③津軽藤崎から十三湊へ進出、二代執権兼陸奥守「北条義時」に「蝦夷沙汰」を付与され関東御用津軽船を運用…
後に南北朝では北朝方として「蝦夷沙汰」を安堵され十三湊にて隆盛を極める…
④最隆盛時の「安東盛季,日ノ本将軍康季」親子の時期に南部氏の侵攻にあい十三湊陥落、北海道へ回避し再奪還を図るも宗家滅亡…
⑤南北朝期又は④の時代で秋田湊へ進出し、「安東鹿季が上国湊安東氏」立上げ…
⑥南部氏が傀儡を狙い宗家を継がせた「安東政季」が南部氏へ反旗を翻し、北海道へ。後に秋田の檜山へ移り「下国檜山安東氏」を立上げ…
⑦檜山の「安東舜季,愛季」が檜山と湊を統一…
⑧愛季の死により「安東実季」が家督を継ぐが湊騒動勃発、秀吉の惣無事令に触れたとして所領の1/3を秀吉領として召し上げられその代官とされ、この頃檜山→秋田湊へ。
ざっと、こんなところ迄は紹介してきた。
なら、その後は?
ざっと書く。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…
「北の関ヶ原」とされる最上氏vs上杉氏の戦いは、立川町史より庄内の歴史で取り上げた。
この両氏、それ以前から庄内への扱いで揉めており、出羽三山の荒廃の元となったのは概報。
安東改め「安倍姓秋田実季」はこの時に徳川方に付き、上杉氏と結んだ小野寺氏や矢島氏を攻撃し攻略しているが、問題はタイミング。
関ヶ原がアッサリ終わった為、終戦後にまだ攻撃していたと最上義光が徳川家康に讒言、実季が弁明、将軍御前での対論となった。
場所は大久保相模守邸…とは言え、当の家康は鷹狩にで、最上義光はお供。
「三春町史」によれば、最上義光の家臣、坂紀伊守が実季に詰問し実季が答える形になったと言うので、完全出来レースだったと…
それでも、最後には坂氏をやり込めて「十分の利運ニなり申候而 座ヲ立」と言い放ち席を立ったとか。
⑨結果は宍戸五万石として転封決定。
とは言え、最上義光は57万石に加増…結果は出ていたのだろう。
詳細は割愛…
⑩実季は嫡子俊季と藩政内容で揉める様になり、幕府裁定により実季は伊勢朝熊山へ蟄居、俊季は正式に宍戸藩主となる。
この裁定はかなり微妙なものらしい。
実季は一度幕府に領地没収され、それを俊季に与えた様な形なのか?
当時、吉野や熊野は家康,秀忠により、関東の大名,武将の蟄居の場と指令されていた様だ。
⑪三春へ転封となるが、俊季は三春の地を踏む事なく勤番中の大坂で病死、嫡子盛季が二代三春藩主となる…
で、初代俊季から十一代映季まで三春藩主を務める。
三春の資料館で見た秋田氏の評価は「可もなく不可もなく」…と言った感じか。
とはいえ、実季の幕府への対応や実季と俊季の仲違いが幕府裁定までに至っていたのにも関わらず改易に至らなかったのは、実季正妻且つ俊季の母円光院が「お犬の方(信長,お市の方の姉妹)」の娘で、三代将軍家光と俊季が又従兄弟だからと言う話も。
義光後の最上氏が最上騒動で改易の憂き目を見ている事等を考えても、特徴的かも知れない。
さて、本題。
秋田秋田城介実季は朝熊山でどんな暮しを?
以前概報なのは「秋田家文書」の編纂作業。
日ノ本将軍と呼ばれた安東康季が再建した福井羽賀寺の住職らと文のやり取りをしていた事は史料が残された様で。
「一河内守俊事から今日にいたるまでの年寄たちは、その筆頭人にいたるまで、ことに家の系図などの事は、何の役にも立たない事だと思っている奴らである。むかし、豊臣秀吉様の時代には、自分をはじめ、そうした考えだったものだが、徳川家の時代になり、家の系図のよい侍が、将軍様のおぼしめしがよいと考えられている。(後略) (『小浜市史』所収「羽賀寺文書」》」…
自分の正妻が信長の姪に当るので、この時代としては、箔はついているのは確か。
最早、戦国の世は終焉間近。
幕府からの要求で、俊季が一度家系図を幕府に提出しているらしい。
晩年まで、それに不備があったり薄いと考えていた幽囚の実季はこのことを不満におもい、系譜を正すことに精力を傾けた。
そこで、執念で資料を集めたりしたようで。
権威の世の中になるのは解っていたのかも知れない。
この系図は、二代藩主孫の盛季の元に届けられる。
どうやら、実季と盛季は啀み合う事はなかった様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/192830
「安東愛季公が官位を授かる為の壁「勅勘」… 公卿らの勘繰をねじ曲げさせる織田信長公の実力」…
盛季以降はどうやらこの家系図を提出するに至る様で、それは明治政府に対しても同様だったと。
実季は、朝熊山永松庵(今の永松寺)に預かりの身となり極近臣の者と共に移り、寺内の草庵で特に寵愛していた側室の片山氏と娘千代(千世)の3人で暮らす。
かなり質素な暮らし向きだった様だ。
家系図編纂の他、実季は和歌俳諧に通じていた様で「宗実」又は「凍蚓」の号で和歌や書画を残し、「明良洪範」なる逸話集に記され江戸期に広く知られた人物だったとある。
蹴鞠や勿論、茶湯にも通じた文化人だった様だ。
又、面白い逸話が残される。
医学が本格的に研究される様になったのは江戸後期〜幕末。
それまでは家伝薬らが中心。
で、秋田実季はそんな薬学にも長けていたとされる。
「三春町史 第9巻 近世資料2(資料編3)」 より…
「 [朝熊万金丹暖簾〕
安倍奥州田村城主 秋田城介侯御教方
朝熊万金丹 本場 岩城仙寿軒
「皇国元始
あさままんきんたん 秋田教方 」
〔伊勢市 岩城たに蔵〕」
勿論、諸説ありだろうが、実季は蟄居中の朝熊で世話になってる人物にその家伝薬の処方を教えたそうで。
それを伊勢岩城仙寿軒が「本場あさままんきんたん」として代々販売するに至ったと伝わる。
先に千代、そして片山氏を失い独りとなった実季の波乱の人生は、約30年の蟄居生活の中執念で纏め上げた家系図を孫盛季へ与えた翌年に幕を降ろす。
「日本国の北方殆ど北極の直下に蕃人の大なる国あり。彼等は動物の毛皮を着し、毛全身に生じ、長き鬚髯あり、飲まんと欲する時は棒を以て其髭を上ぐ。甚だ酒を好み、戦闘に勇猛にして、日本人は之を恐る。戦闘中傷を受くる時は他に薬を用ひず、塩水を以て之を洗ふ。鏡を胸に懸け、頭に剣を縛し、其先端は肩に達す。法律なく、天の外礼拝する物なし。国は甚大にして都より三百レグワあり。彼等の中にゲワの国の大なるアキタと称する日本の地に来り、交易をなす者多し。日本人彼地に到る者あれど、彼等の為め殺さるゝが故に其数は少し。此種の事にして記すべきもの多しと云へども、本書翰は既に長くなりたれば及ぶ丈省略すべし。」
蝦夷管領、日ノ本将軍、秋田城介と呼ばれた「北海の覇者」の一族は、海から離れた山国、三春の地を治めるに至った。
そして、一族最後の北海を知る秋田城介は、北海から遠く離れた熊野に葬られた。
何とも皮肉な話ではある。
参考文献:
「三春町史 第2巻 近世(通史編2)」 三春町 昭和59.10.30
「三春町史 第9巻 近世資料2(資料編3)」 三春町 昭和56.3.25