中身は眉唾?いや、実は乱自体はあったらしい…「野辺地町史」にある「蠣崎蔵人の乱」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230
この前項にある「蠣崎蔵人の乱」、「野辺地町史」に記載があったので取り上げてみよう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
「蠣崎蔵人の乱」を取り上げるのはこれで三度目。
関連項の部分を改めて…

「しかし(筆者註:「武田」)信広の出自も、コシャマインの乱そのものにも他に信拠すべき資料がなく、かえって南部にはその前年の長禄元年、下北半島によった、根城南部氏の目代武田信義の五代目と言う蠣崎蔵人が八戸南部氏に破れて蝦夷島に逃れたと言う議論がある。大切なことは永正一〇(一五一三)年上の国を中心に勢力を張っていた蠣崎光広なる者が大館を攻めて安東氏の代官を殺し、翌年ここに移り、大館を修築して徳山と名づけ、後秋田の安東氏に働きかけてその地位の公認を受け、諸国から来る商船・旅人から税を徴し、その過半を安東氏に納めたという事実である。」

「新北海道史 第一巻概説」北海道 昭和56.3.10 より引用…

「新北海道史」においては、「武田信広」の出自も「コシャマインの乱」の実在も疑わしい。むしろ、後代の蠣崎光広が安東氏に重用され、力を付けた事実とある。
では、この南部側にある「蠣崎蔵人の乱」とは?

「この乱については『三翁昔話』政経君、康正三年の条に「一、二月爰に又田名部の領主蠣崎蔵人云者。多年在京の勤番を怠り、猶我意の挙動仕候段達叡聞、政経君江退治可仕由人皇百産大後花園院より宣旨に依て、…(後略)」の記述があり~後略」

野辺地町史 通説編第一巻」 野辺地 平成8.3.22

この「三翁昔話」は、遠野(八戸根城)南部家臣の「新田政父」が1772年頃に纏めた遠野(八戸根城)南部氏の史書の様だ。
そして、詳細が書かれたものは、南部家臣の「福士右馬丞長俊」の書いた「東北太平記」にあると言う。
但し、野辺地町史に於いても、物語本且つ誇張,潤色、しかも江戸初期。
何せ、野辺地も登場するのだが、肝心の野辺地にそれに伴う様な伝承がまるでない。
ぶっちゃけ眉唾臭いものとして記載される。
一応、要約してみよう。

この物語は、南北朝の動乱が元々だと言う。

1347年、八戸根城の南部信政が「護良親王」の遺子「八幡麿」を「北部王」として奉戴。八幡麿は源姓を賜り「良尹王(後に義邦と改める)」と名乗り、下北に入り、南部信政の妹を妻に娶る。…ここまでで「北部王」が出来る。

後、八戸根城南部氏の目代である武田信吉が「後村上天皇」の皇子「宋尹(義祥を名乗る)」を北部王に就く。

義邦の死去で、その子「義純」が家督を継ぐ。義純の妹が「蠣崎蔵人」の元へ嫁ぐ。

義純が船遊び中、その男子二人と共に溺死。急遽、老齢の「義祥」が家督を継ぐ事になり、義純の婿である蠣崎蔵人を養子とし蠣崎蔵人信純と名乗らせる。

義純一家の溺死で、八戸(根城)南部の南部政経は蠣崎蔵人を疑うが、動く事は出来ず。

蠣崎蔵人は上洛し、足利将軍家にとりいり従五位下に任ぜられ、北部王義純の跡取りとして南朝方を復活させるべく挙兵、北朝へ寝返った「八戸(根城)」,「三戸」の両南部への攻略を開始、その数は六万二千…
なぬ…?

蠣崎方は七戸城を落とし、七戸城の取り合いを巡り攻防を繰り返すが、八戸南部家臣の新田清政の奮戦で大勝する。
その後、蠣崎方討伐の宣旨がもたらされ、南部氏は戦いの大義名分を得る。

八戸(根城)南部方は攻勢に転じ、悪戦苦闘を続けながら北進。
同時に八戸(根城)南部の総帥、南部政経が八戸から水軍で参戦。蠣崎城を夜襲。
蠣崎信広を討ち取り、城を陥落させるも、蠣崎蔵人信純は闇にまみれて「松前」に落ち延び、南部方の勝利に乱は終了。

総帥南部政経は戦後処理に取り掛かり、新田清継を田名部の鎮めを命じ、全軍帰投。

以上。
さすがに南部、話の盛り方が半端無く壮大としか言い様が無い…
前述の通り、野辺地町史でも「眉唾」扱いは否めない。
さすがに、この盛り方なので「蠣崎蔵人の乱」の実在は疑いを持って語られていた模様。
それはそうだ。
蠣崎方の兵力六万二千の大乱なら、下北半島の付け根である野辺地にまるで伝承がないハズもなく。
また、蠣崎蔵人は大陸側らと計る所あったとまで書いている。
「北部王」の存在さえどうなのか解らずでは真偽の程以前。
ここまでで話が終われば簡単。

だが、ここで終わらない。

「前略~最近たしかな陸奥探題大崎教兼の挙状十八枚が八戸根城南部家文書中に確認されたため、乱の記述のすべてを疑うことは難しくなった。」

野辺地町史 通説編第一巻」 野辺地 平成8.3.22 より引用…

実は、前項らにあるように、八戸(根城)南部氏は、後に遠野に移る。
「三翁昔話」が書かれたのも、この遠野(八戸根城)南部家なのだが、その遠野南部家に残された「八戸根城南部家文書」の中に、戦功として新田盛政を城代として田名部三千石を八戸(根城)南部の所管とする旨を記した陸奥探題大崎教兼家臣である山科教兼の任官推挙状が残されていると言う。
当然、陸奥探題から恩賞で与えられた所領なので幕府からの許可があった事になる。
つまり、何らかの戦が実在した事にはなるのだ。
筆者的に解ったのはここまで。
それら書状の真偽は専門家の判断だろう。
ただ、少なくとも、何の物証も無く新羅之記録にしか記載が無い「コシャマインの乱」よりは遥かに蓋然性が高いと言える訳だ。
どんな出自らかは不明だし、何のきっかけで南部氏に対して挙兵したかも不明だが、蠣崎蔵人信純が南部氏と戦い破れ、松前に逃れた事は有り得る…これらから、「新北海道史」で「蠣崎蔵人の乱」の記載を行った…と、なるか。
微妙に武田姓が登場したり蠣崎信広と言う人物が登場したり…古書の妙と言えるか?
更に、歴史の妙と思えるのは、後の松前藩の家老らの中に「蠣崎蔵人」を名乗る者が存在する事だ。
田名部周辺にはそれまで元々南部氏ではない地域があり、戦により南部方に編入されたのか?
おいおい学んでいこうかとは思う。
が、少なくとも、新羅之記録「だけで」北海道史が紐解ける程、甘くはない事は解って戴けたと思う。
有った無かったか?蓋然性が低いコシャマインの乱の中身で北海道中世史を語ろうとする無意味さも含めてだ。
何故なら、後の松前(蠣崎)氏の出自に関わる内容なのだから。



参考文献:

野辺地町史 通説編第一巻」 野辺地 平成8.3.22

「新北海道史 第一巻概説」北海道 昭和56.3.10