対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道、日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/11/210211

前項を受け、牡鹿半島周辺の中世から学び直そうかと筆者は岩手県南部域をふらりと訪ねてみた。

ちょっとそこから今まで欠落していたキーワードがポロポロ出てきたので報告したい。

 

牡鹿半島周辺の安藤氏… https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1591579668481994753?t=F0Kd6jJU14Jrz9Xc8z3Lsg&s=19

概略はこちら。

ここで「陸前高田市立図書館」へ。

葛西氏や離れてはいるが牡鹿半島周辺の安藤氏についての文献はないかと、漠然として無茶振りではあるが。

では、

「奥羽の安藤氏は、前九年合戦の安倍頼良・貞任の後裔と伝え、津軽(青森県)を根拠として活躍した北条氏被官の安藤氏が有名だが、県内にも中世以来、広く分布している。まず文治五年奥州合戦の際に「山案内人」として源頼朝に協力した安藤および三沢安藤四郎がいる(吾妻鏡)。三沢は刈田郡内の村(白石市)。また鎌倉末期に登米郡新田のあたりに「あんとう又太郎」なるものがおり(大石寺文書正和元年一月藤原頼通等譲状)、松島雄島の貞和五年銘の板碑に安藤太郎妻の名が見える。さらに牡鹿半島給分浜(牡鹿町)の修験、見明院の先祖は安藤太郎重光なるもので、鎌倉時代以来の由緒を伝えている〜中略〜塩竈神社の神官の中に見える「あへあんたう四郎」も安藤の一族であり、安藤氏が安倍氏とつながるものであると証拠だてている(留守分限帳)。安藤氏には山や海に関わりをもつものが多い。」

牡鹿郡十八成組給分浜(牡鹿町)に、安藤太郎重光を初代とする安藤家がある。重光は、中世に秋田から羽黒山先達職として移り住んだ。安藤の親族間で羽黒山先達職をめぐる争いが起こり、重光は羽黒山政所に願い出て、弘安四年遠島先達職を得た(安永風土記/県史26)。その後は俗名のまま先達職を継いだが、天正一九年に蓮華院を名のった。」

 

宮城県姓氏家大辞典」 宮城県姓氏家大辞典編纂委員会  角川書店  平成6.7.8  より引用…

 

宮城県の安藤氏は、引用の様な「安倍姓安藤氏」や「藤原姓安藤氏」がある。因みに手持ちの「仙台藩士事典」には安倍姓安藤氏とみられる人物は記載がない。

藤原姓安藤氏系や柴田氏白石片倉氏の家臣団として仕官していた模様。

いずれにしても、鎌倉期頃に安藤氏が居て板碑を残したり、見明院の修験としてこの地にいた様だ。

ここで気になるのは「山や海に関わりを持つものが多い」…。

確かに、今までの海運の担い手としての側面、そして羽黒山修験の側面、両極ではある。

では、次へ。

 

出羽三山

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1591587671507623936?t=yx_vpxZ9kMSvt9Ats9nZbw&s=19

住田町民俗資料館である。

ここは採金や永山鉄山ら、近世近代でも鉱山が生業としての側面があった様だ。

蔵王権現ではあるが修験がここで「梵字岩」を刻んだとある。

実はここにも出羽三山が登場する。

岩手県内の鹿踊りは幾つかの流派に分かれる様だが、ここにある奥義書では「月山鹿躍」と。

この辺もオシラサマら民間信仰が色濃い場所でもあるが、各地を修行して歩く修行僧達が立ち寄ったところでもあるのだろうか?

次に「遠野市立博物館」へ。

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1591622714342920192?t=hwDs7eOcd19C8N_WBwAITg&s=19

ここでは、はっきり羽黒系の修験と。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225

以前も金山や辰砂の件で遠野の資料から修験との関わりを考えていたが、この一帯そんな傾向を持つのだろう。

遠野市立博物館では山岳信仰についての特別展をやっていたが、真室川町立歴史民俗資料館からの借受頻発も多く、民間信仰が山続きに伝わる様は何となく見える。

実はこれ、この周辺だけではなく下北半島でもあるようだ。

例えば、イタコで有名な恐山。

神降ろしと言えば、山形でも「オトモサマ」として行われている。

で、恐山の地下には金鉱脈が確認される。

それだけではない。

六ケ所村にも「月山」なる修験の山が。

この近くでは砂鉄があるという。

製鉄遺構は見つかってはいないが、鍛冶は羽口らの出土で明白。

で、先の備忘録。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/21/193244

修験の山、いや出羽三山と鉱山の関係。

妙に近い。

これも、不思議ではないのかも知れない。

古の時代、神官や僧侶は宗教家だが、博物学者でもある。

なら、修行として山を歩き回り、その内容を本山に対しフィードバックしたりは有りなのだろう。

 

日蓮宗と九曜紋…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214

こちらに関与する。

ブログ中の、

「まずはWikipedia「安東氏」より。

「『日蓮聖人遺文』の「種種御振舞御書」には建治元年(1275年)のこととして「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。これを、真言宗に改宗したためアイヌに殺害されたとする意見[18] もあるが〜後略」

この記述では、安東氏は元々、日蓮宗なりを真言宗へと改宗したと…」

Wikipediaではあるが、この一文。

少なくとも南北朝期に於いて、安東氏は時衆だろう事は、青森県の紀年遺物関連の研究で概ね明らか。

で、ここで身延山の古文内で日蓮宗門徒の話が出てくる。

何故なのか?

身延山に北東北の情報を流し得たのは誰か?

ずーっと引っ掛かっていた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/28/165103

それは、阿仁合日蓮宗のお寺を訪ねた話題でも触れたが、日蓮宗の伝承では北東北はスルーし、北海道へ向かった伝承。

なので、安東氏がそれらに該当するとも思えなかった。

しかし、火のない所に煙は立たないだろう。

北東北の状況を身延山へ流し得た人物が居たであろう。

遠野市立博物館では前述の様に過去の特別展図録を販売しているので、何気に手に取ったものの中に、身延山久遠寺が載っていたので「あっ!」と思った。

「遠野南部氏は、とくに初代実長が日蓮を身延に招いて保護し、身延山一円を寄進して今日の日蓮宗大本山久遠寺を開基した、南北朝時代に師行、政長、信政、信光、政光(所謂勤王五世)が終始北奥に於ける南朝方の中心として活躍したこと、中世以来の北奥に関する膨大な古文書を秘蔵していることで有名である。」

「第33回特別展 「南部氏と遠野」」 遠野市立博物館  2011.3  より引用…

 

南部氏については、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

今までも触れている。

参考系図にあるように、清和源氏義光流で、上のマーカー「光行」から南部氏となっている。

引用文にある「実長」(中のマーカー)は鎌倉中期の人物で、これが身延山を寄進して久遠寺を開基したとある。

因みに、南朝の貴公子「北畠顕家」に帯同し、南北朝で東北拠点を移したのが明確になるのが下のマーカー「師行」になる(系図上の問題は有り)。

で、この身延山を寄進した「実長」を根城南部氏の系図上の初代としており、この段階ではまだ甲斐国の南部を治め波木井(現身延町)を拠点にしていたとある。

これだけ繋がりが深いなら、身延山に北東北の情報を伝える事は可能だろう。

で、この甲斐南部→陸奥根城(八戸)→遠野(江戸期)と移っていく訳だ。

で、その家紋は元々「九曜紋」を使っていたようだ。

何せ、後に南部氏が主に使う家紋は「対い鶴の九曜紋」。

鶴の胸に九曜紋が残される。

さて、我々グループが気にしていた九曜紋、これは「貞治の板碑」の下に葬られた箱に九曜紋がついていた話に引っ掛かっていたからだ。

今までも例えば、千葉氏支流の武石(亘理→涌谷)氏が九曜紋ら、探してきた。

が、足元の当事者の一つがそうであった事になる。

しかも、根城南部氏なら八戸に水軍を持っていたらしいのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623

蠣崎蔵人の乱鎮圧の為に動いたとの記載がある。

さてでは、安東氏と根城南部氏との関係を考慮し、葬ったのが時宗門徒、葬られたのが九曜紋を持つ者、こんな場合どんな事があり得るだろうか?

①安東方が根城南部氏方を討ち取って葬った

②何らか和睦に際する婚姻関係から、安東方へ輿入れし、その本人や子供を葬った

こんな事は考えられて来るだろう。

ここから先は、碑文と古文書の整合が必要となって来るだろうが。

三戸南部氏がたしか菩提寺禅宗だったので日蓮宗のピースが不足していたが、ここでなんとか見つかった事にはなるのかも知れない。

 

如何だろうか?

少しずつピースが揃って来た感も。

まだまだ入口。

ピースが合うのか?

点と点とが線に変わるか?

まだまだ学んでいこうではないか。

 

 

 

 

 

参考文献:

 

宮城県姓氏家大辞典」 宮城県姓氏家大辞典編纂委員会  角川書店  平成6.7.8  

  

「私本 仙台藩士事典(増訂版)」  坂田啓  今野印刷 2001.5.20

 

「第33回特別展 「南部氏と遠野」」 遠野市立博物館  2011.3