北海道の対岸の状況はどうだったのか?…野辺地町史に見える古代~中世の文化到達の片鱗

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647
ここを前項とする。
昨今、青森県野辺地町がブログ上でもポツポツ登場している。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/21/072428
ならばと思い、筆者は野辺地へのフィールドワークを敢行した。

野辺地は、近世では北前船の湊町として栄え、南部領の端、津軽(支藩黒石)藩との境界があった場所。
町立歴史民俗資料館や町史によれば、尾去沢鉱山の粗銅を陸路でここへ運び上方へ海運した積出港でもあり、要衝として野辺地城代が管理し、船主らが居を構えた場所らしい。
が、筆者が知りたいのは、前項や関連項にある古代~中世の野辺地の姿。
では、野辺地のそこまでの「通史」を拾ってみよう。


・縄文期
詳細割愛するが、縄文後期において国重文していされた遺物が二点ある。
①有戸島井平(4)遺跡
板状土偶で愛称は「縄文くらら」。
立脚型で、板状土偶としては大型。
②向田(18)遺跡
「赤漆塗木鉢」。
赤漆で全面塗装されていたせいか底部以外は現存、縁の部分に巻き貝の蓋殻が埋め込まれ、まるで螺鈿細工の原型とも思わせる。
この二点以外にも、円筒土器文化圏の一角であるのが解る遺物が展示されていた。
ただ、この周辺は縄文晩期の遺跡が少なくなるとの記載か町史にある。
比較的温暖だった縄文後期までは、周囲で水晶や瑪瑙も取れ、豊かな暮らしを思わせる。


・弥生期
青森でも弥生の水田跡は弘前「砂沢遺跡」で広大な水田跡や地場の砂沢式土器に加え、遠賀川系土器も出土。
南との交易を示す物が検出される。
八戸市辺りでも弥生土器を伴う遺跡は検出されていたと思う。
今渡島半島で弥生系土器を伴う遺跡発掘のニュースがあったと思う。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/02/163712
我々も北海道と弥生文化集団のコンタクト痕は捉えている。
野辺地では、松ノ木(1)遺跡や向田(18)遺跡で続縄文系土器が検出されており、又、町立歴史民俗資料館では向田(26)での弥生式土器と炭化米が展示されていた。
正に弥生文化到達し、それとのコンタクト痕とも考えられるのではないだろうか?。
現状、ポーダーラインが、青森県北部~北海道渡島半島周辺となるのだろう。

・古墳期
所謂終末古墳の青森での事例は、
①八戸「鹿島沢古墳群」
②八戸「丹後平古墳群」
③下田「阿光坊古墳群」
らをあげている。
野辺地においてこの時点での古墳群の検出はないとしているが、古墳に副葬される「石製模造品」の内、野辺地町有戸の雲雀牧場で「剣型模造品」が発見され、明治24年の東京人類学会雑誌に報告されているとの事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
ここはそれこそ、北海道に終末古墳群が存在するのだから野辺地に無いとは言えず、石製模造品が出土してる事を考えれば見つかっていないだけなのかも知れない。


・奈良,平安期
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647
これが前項そのままである。
奈良期の遺跡はこの時点での検出は無し。
しかし、平安期、これにある向田(35)遺跡の製塩土器が町立歴史民俗資料館に展示されている。
実はそれだけに非ず。
二十平(1)遺跡においては、錫杖状鉄製品が出土されていた。
それがこれら。
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向田(35)遺跡では都らとの行き来を示唆させるガラス玉まで検出していた。
杖の部分が無いので錫杖状なのだろうが、僧侶や修験者、つまり仏教の伝播を示唆させているのだろう。
町史にある「明前遺跡発掘調査報告書」では、
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井戸状遺構を伴う3重の環壕の検出例を紹介している。
この時代の野辺地の状況を、もっと新しい文献から補強してみよう。

「昭和51年度には再度、青森県教育委員会により明前(1)遺跡の調査が実施された。調査では、10世紀代の竪穴住居が1軒検出され、三重の空堀りで形成される環濠跡が測量調査により記録されている。」
「その後平成13~15年度には、野辺地町教育委員会により二十平(1)遺跡が調査され、二重構造の薬研堀を巡らす大規模な環濠集落が検出された。堀跡は平安時代の鍵層である白頭山起源の苫小牧火山灰の堆積層を断ち切って構築されており、10世紀中葉以降の構築年代が与えられている。特筆すべき出土遺物としては、遠隔地との交易・交流を示す近江産の緑釉陶器が挙げられる。」
「平成15年度には、同教育委員会により坊ノ塚(2)遺跡が調査され、9世紀後半から10世紀初頭の竪穴住居跡が2軒検出された。また調査区の背後に連なる丘陵の頂部は、中世代の山城跡と認定され、平安時代の防御性集落と中世山城が重層している可能性が指摘された。」
「平安13~14年度にかけては、青森県埋蔵文化財調査センターにより向田(34)遺跡と向田(35)遺跡の調査が実施された。~中略~向田(35)遺跡では、竪穴住居跡の検出総数が80軒を数える大規模集落が発見された。集落は斜面をひな壇状に削平し、そのテラス状の平場に竪穴住居を配置する構造で、その傾斜地の住居の背後に広がる丘陵の頂部には、空堀で囲郭した首長層の住居空間と推定される環濠を有する。土地利用の規制であろう区画溝を配した居住区も検出されている。この様な集落内での階層を明確に示した居住空間のパターンは、大規模防御性集落として注目される八戸市林ノ前遺跡にも見られる。」
「(筆者註:向田(37)遺跡は)竪穴住居跡、竪穴遺構、土坑、柱穴状ピット(掘立柱建物跡)、溝跡(柵列)等で構成される平安時代の集落を検出した。~中略~須恵器は、すべて五所川原須恵器窯跡前田野目支群の10世紀第3四半期のものである。~中略~本遺跡では、塩、鉄製品等が生産され、農作物、海産物(貝)等が利用されていたようである。」
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「向田(37)遺跡 -一般国道279号道路改築事業(有戸北バイパス)に伴う遺跡発掘調査報告書-」 青森県教育委員会 平成18.3.10 より引用…

この向田(37)遺跡は、十和田噴火の火山灰層の検出から10世紀中~11世紀中期位に比定され、前述の坊ノ塚(2)遺跡,二十平(1),向田(35)遺跡らとほぼ同一の時代に製塩や鍛治を生業とした人々が暮らしていたと想定されている。
発掘が行われた平成18年段階で、平安期の集落跡関連と考えられる遺跡は45、その内環壕を伴う遺跡は6にのぼる。
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つまり、野辺地一帯は土豪が仕切る郷が形成され、製塩や鍛治を営み、それを出荷,売買する事で運営、仏教や修験道を信仰し、急速に都市化していく様が見て取れるだろう。
この交易相手は誰か?
当然、対岸の北海道や更に反映した遠距離の都市と考えて良いだろう。
この様に、野辺地一帯での状況だけでも、土豪の台頭や階層の出現が、環壕の作りからも示唆出来よう。
それも、生産物を中心とした交易で豊かな暮らしをしていたからこそ、急速に人口増加等があったと考えられるのではないだろうか。


・鎌倉期
実は、平泉陥落後から南北朝まで、つまり鎌倉期の記載はほぼ無い。
記録が殆ど無く、鎌倉期を明瞭に示す遺跡も無い様だ。
ただ、野辺地の製塩は江戸期でも記載があり、平安の集落規模が戦乱や災害無しであっさり消え去るとは考え難い。
筆者としては、そのまま製塩や交易に従事した人々が暮らしていたのではないかと推測したい。
それに、この後に野辺地は古書で登場する。


南北朝~室町,織豊期
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/21/072428
南北朝の姿は正にこれ。
伊達五郎宗政への知行地受領が片鱗を物語る。
ただ、この実態は明らかではない。
この後、南北朝の統一より、三戸南部氏の仲介で終始南朝方を貫いてきた根城,七戸南部氏は刀を納め、動乱が収まる方向へ。
七戸南部の庶流「野辺地氏」が収めたのではないかと考えられている。
最終的には、「豊臣秀吉」により小田原参陣した「南部信直」が野辺地以東を安堵され、前後の記録として所領整理の中に「野辺地城」が記され、朝鮮出兵の際「野辺地城主七戸(野辺地)直高」が従軍した記録が残る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
何より我々として捉えているのは、これだろう。勿論これは町史にも記載されている。
蝦夷船、それも小型の物は主に野辺地で造船され、金を仙北米に換え野辺地でガンガン作るべしと八戸(根城)南部直栄経由で指令していた。
交易を継続していなければ造船は廃る。
その延長で野辺地の繁栄はあったのではないか?…これが筆者の考えである。
この当時の「野辺地城」の推測される姿はこれ。
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地方史研究だが、江戸期の記録らから推定し、「当城の起源は明らかでない。…しかし当時蝦夷の旧塁を改造して和人之を居館としていたことは窺われる。」とある。
この様に、前代で蝦夷館、つまり防御性集落を改装し、中世の城館として利用した事例は東北には幾つもあり、十三湊安東氏の福島城も、南部氏の盛岡城もその前の城館を巨大化したり石垣追加したりして利用している。
実際、城とはそんなものなのだ。
当然なのだ。交通の要衝に築城しなければ意味が無いのは当たり前の事。
地形を簡単に変える手段が無い限り、拠点が簡単に変わるハズも無し。


概略ここまでが、古代~中世の野辺地の姿。
現存は静かな漁村のイメージだが、江戸期の北前船寄港地以前からかなり開け、むしろ豊かに暮らしていた姿が想像可能ではないだろうか?
何せ、古書に無い→あまり争いに巻き込まれていない…とも、考えられる。
平和且つ活気を帯びた人々の声が聞こえないであろうか?
そして、ここは北海道との行き来が推定される場所。
陸奥湾渡島半島を結ぶ「八の字潮流」に乗れば、渡島半島の東側から胆振方面への渡航はある程度簡単だろう。
そして、
・円筒土器文化圏
・弥生,古墳期の文化のグラデーション地域
・平安期の巨大化していく様や、東北の文化,文物や修験道、環壕集落のノウハウらの流出地
等々、結び付きが強いであろう事は、遺物が語ってくれている。
偶然は無い。
全くもって、必然として、野辺地がそれらを担う一角であった事は想像に易しい。
これら野辺地の歴史を見れば、有珠や厚真らに検出される仏教的痕跡が特別なものに見えるか?…否。
必然としか言い様が無い。
ましてや、再三言うが「チャシ」の構築技術は野辺地の先人もご覧の通り持っていた。
行き来の中で、お互いに見ているだろう。
伝わって当然。
血族として混雑して当然ではないのか?

だから、我々は言う。
「北海道と東北は古代から繋がっている。それが途切れた事は無い」と。
強いて言うなら、近世後半の「言葉が通じない人々が居た事」が、むしろ特異点なのだ…そうは、思えないか?
通史で時の流れを「下れば」、こんなものだ。


備忘録として付記する。
「『平内町史』(昭和五十二年平内町)に、烏帽子岳の北側、南部と津軽の藩境に近く、丸山金山が記されている。藩境に近いところから両藩紛糾の種になったこともあるという。」

野辺地町史 通説編第一巻」 野辺地町 平成8.3.22 より引用…

近辺には昭和初期段階でも石英鉱脈が記され、その周辺が金山だったのではないかと考察される。
また前述と通り瑪瑙産地として知られ、有戸海岸付近で「アリト石」と呼ばれ、下北沢の山々の安山岩の割れ目らにあったものが潮流に流され漂着したと考えられるとの事。
富の源もあった事になる。



参考文献:

野辺地町史 通説編第一巻」 野辺地町 平成8.3.22

「向田(37)遺跡 -一般国道279号道路改築事業(有戸北バイパス)に伴う遺跡発掘調査報告書-」 青森県教育委員会 平成18.3.10