その後彼の姿を見たものはいない…江戸初期にあった「西洋人の消息不明」の事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/08/123257
さて、探していた事例がもう一つ記載あったので紹介する。
結論から書こう。
我が国に来て、そのまま土着又は「消息不明」になったバテレン
土着した有名なところでは、遠藤周作の「沈黙」のモチーフになったイエズス会会士「沢野忠庵(クリストファン・フェレイラ)」など。

では「消息不明」は?
ディエゴ・デ・サン・フランシスコ…
フランシスコ会士でスペイン人宣教師。
南蛮人のみた日本」の著者、佐久間氏はこのディエゴ・デ・サン・フランシスコの報告書を翻訳したりしている。
要約してみる。

・1612(慶長17)年
来日。
・1614(慶長19)年
高山右近らのフィリピン追放に合わせ、バテレンの強制追放令が出た時に、数十名のバテレンと共に山中潜伏開始したが、江戸で捕縛され、一年半牢獄へ。
ここで幕府船奉行の向井将監忠勝に着目され、メキシコに戻るスペイン船に同行させ離日。
・1618(元和4)年
再び来日。潜入
・1626(寛永3)年
イエズス会との軋轢を避け長崎へ、そして日本海ルートを船で北上し、酒田湊へ到着し、布教開始。
・1629(寛永6)年
武士に変装し、再び永崎へ向かう。
・1632(寛永9)年
再び、酒田湊へ。
そして、この時の書簡を最後に報告は一切途絶え、消息不明となる…
だそうだ。

西廻り航路開設、所謂北前船就航は1672(寛文12)年で、まだ酒田湊は主要湊とはなってはいない。
幕府直轄で、主に商人衆による自治的要因があったから潜伏し易かったか?
この先は記録が途絶えるし、この著書段階では捕縛,処刑も記録がない様だ。

正に、「その後彼の姿を見たものはいない」…の模様。

さて、ここで地理的要因を加えてみよう。
酒田から遊佐を越えれば象潟に至る。
まだ、地震による隆起前なので、象潟は湾となっていた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
象潟衆が自らの船で北海道入りした事例は同時代か少し時代を下ってある。
まだこの時点ではゴールドラッシュの最中で、同乗して蝦夷地入り出来れば、ほぼ足取りは追えない。
史書を見る限りでは、沖の口奉行らの取締等の記載があるが、民衆レベルで考えたら割と気楽に商売に向かっている。
松前の湊をスルーすれば、取締はガバガバだった可能性は高い。
ここは案外、学術レベルでの盲点なのだろう。

更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
時系列的には、樺太にはスペイン人の影があった…これとは矛盾はしないので、初歩的仮説的には「酒田湊周辺から蝦夷地入りして、樺太迄到達」…
これを疑う事も出来なくはない。
但し、立証は限りなく困難。
仮にその後、山丹交易の延長線上に、大陸の会士と接触出来れば何らかの書簡が出ただろう。
だがそれもない。
全くの「消息不明」。

事実、潜伏し捕縛から逃れたバテレン達はどうなったのだろうか?
因みに…

「(筆者註:1626年)長崎の魚屋町の入り口の前にある肉屋町の溝に沿って歩いているとき、信仰を棄てた黒人奴隷ベントゥーラがわたしの後をつけて来て、前に立ってわたしを注視した。」

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17 より引用…

この時、ベントゥーラは長崎奉行に士官し、バテレンキリシタン捕縛に従事していた模様。
ベントゥーラは独りの為、周囲の者に捕縛協力を求めたが協力者がなく、フランシスコ神父は逃亡に成功と報告している。
つまり、スペイン,ポルトガル人(南蛮人)、オランダ,イギリス人(紅毛人)だけではなく、アフリカ系の奴隷として来日した者も土着したと思われる者は居たのだろう。
後の追放から子孫が逃れられれば、血を引く者は居る事に。
さて、真実は如何に?

備忘録として綴っておく。






参考文献:

南蛮人のみた日本」 佐久間正 主婦の友社 昭和58.2.17