生きていた証、続報38…ならそもそも、北海道〜東北に馬が伝わったのは何時なのか?、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001
久々にランドパワーの要「馬」を学んでいこう。
北海道での駅逓制度は江戸初期から。
そして前々項、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315

「北海道における馬の遺存体例は縄文時代と云われている3例を除くと、上之山町勝山館(上ノ国町教育委員会『上之国勝山館Ⅳ』1983年、『上之国勝山館Ⅷ』1992年)と寿都町津軽陣屋跡(寿都町教育委員会寿都町文化財調査報告書Ⅱ』1983年)の2箇所である。」

千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日 より引用…

ユカンボシC15遺跡の蹄跡や勝山館の動物遺存体、この辺が確実且つ現在遡り得る上限…なのか?
これに記載のある、縄文の馬の動物遺存体には現在まだ辿り着けてはいない。
ならば、手を広げ、北海道〜動物としては何時なのか?を探ってみよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
ここにあるように平安(擦文)期の「延喜式」上、陸奥を最上級として出羽を含め東北は馬の最大産地であったのは解った。
それが何処まで遡る事が可能なのか?だ。
実はこのテーマ、元々は「馬」を学ぶところから出てきた訳ではなかったのだが、それは後程…
と言いつつ、取り上げる文献の初っ端からいきなり記載があるので、引用してみよう。

宮城県角田市古ノ内一号墳で楕円形鏡板付轡・古式馬鐸(図6-16)が出土した。北海道余市郡余市町大川遺跡九六号(筆者註:56号を誤植?)土壙墓では、屈葬された遺体にベンガラが塗られ、曲刃鎌・刀子・鉄鏃・短冊状鉄斧とともにガラス小玉・蛇紋岩製小玉の首飾を副葬し、ペンダントヘッドに朝鮮半島製の方形立聞鏡板残欠(図16-15)を用いていた。五世紀前半の続縄文時代の墓と考えられる(日高、二〇〇三)。古墳時代中期の武器・武具の増大に伴い、北方狩猟民は大量の海獣を含む動物皮革、毛皮・矢羽根の供給に特化することで、鉄器類を入手したと想像される。」
「それを裏付けるように、北上川中流域の岩手県水沢市中半入遺跡では、古墳時代前期〜後期までの住居跡一〇〇以上に加え、方形溝と柵列を廻らす豪族居館もみつかった。当地は最北の前方後円墳角塚古墳の北北方ニkmに位置し、住居からは多量の須恵器(~中略~)、石製模造品、玉類、宮城県湯倉産の黒曜石スクレイパー四〇〇〇点、馬歯、続縄文土器(後北式・北大式)も出土し、続縄文文化集団と古墳文化倭人の毛皮交易拠点と考えられる。宮城県仙台市藤田新田遺跡の木製輪鐙は、五世紀中葉に遡るほか、福島県本宮市天王壇古墳の土製馬(図6-17)は鑣轡・木心鉄板張輪鐙・鞍の古式馬装を表現したと推定される。山形市の大之越古墳では、蓋上に楕円剣菱形杏葉を伴う尻繋(図6-18)が置かれ、象嵌環頭太刀は百済・龍院里古墳群例と対比される。福島県南相馬市高見一ニ号墳では内湾楕円鏡板付轡(図6-19)が出土した。」

「日本列島における馬匹と馬具の受容」 桃崎祐輔 『馬と古代社会』 佐々木/川尻/黒済 八木書店 2022.1.15 より引用…

結語から要約すると…
・騎馬文化は四世紀末~五世紀前半には、三燕,高句麗色をとどめた伽耶,新羅,百済の物が入り、初期段階で東北や南九州へ到達する。
この段階では王権による独占はなく、飼育や馬具技術を持つ渡来系集団は全国の有力豪族へ分配を余儀なくされた様だ。
出土遺物のデザインに統一性もない。
だが、五世紀中葉以降、東北南部~北九州まで同一規格化が起こり、畿内→中部での牧の展開らから、畿内での王権の統一なされ国内生産品が拡散したと考えられる…
このような流れか。

ここで、何故四世紀末とされるのか?
実は大陸から馬を運ぶ為の構造船、つまり刳船の存在が意味を持つ様だ。
それなりの大きさの船が無ければ、馬を運べない…それが現状その位の時代しか遡れていない事が、馬伝来の上限となる模様。

一応、他の章でも遺伝子研究ら含め、モンゴル系の「蒙古馬」が、
大陸→朝鮮半島対馬→北九州→全国へ…
これが現状もっとも支持される移入ルートで単一起源説が最も有力。
我が国の有史創生期に関わる出来事の一つ。
東北には、かなり初期から馬が持ち込まれ、飼育され乗馬としてまた使役する馬として使われており、東北における38年戦争で阿弖流為が騎馬戦を行ったのではないか?という説は時系列的に矛盾なく、黒ボク土の分布からも「北東北の陸奥馬」が最上級グレードとして扱われるに至る事も、その飼育条件や経験の長さから全く問題はないのだろう…納得…

いや、まだ問題はある模様。
本書にある問題点として…
・考古遺物の謎
仮に朝鮮半島経由して入った場合、
①木製品がほぼ「アカガシ」の木を使用しているが、樫の木は硬くて我が国では古来から使用されているが、朝鮮半島で使用実績が無い。
②馬の飼育に塩を大量に使うが(塩水を飲ませる)、製塩土器が朝鮮半島で検出されていない。
こんな話があるようだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
延喜式の時代なら、津軽湾の野辺地周辺でも大規模な製塩事業は検出される。
陸奥馬の生育に問題は無いし、仙台湾では縄文から製塩土器は出土、やはり問題ない。
塩水を飲ませるのは我が国では古書記載あり、本当に渡来系集団が教える事が出来たのか?ベールの中にある。
少なくとも、我が国土着の工人衆が関わり共生していた事は解るのだが。

更に、ルート。
支持は薄い様だが、
「前略~朝鮮半島とは別に、沿海州から間宮海峡樺太島から宗谷海峡、北海道島から津軽海峡を渡る三海峡二島を経由する水陸交互経路「北の馬みち」の存在が想定された(新野、一九八八)。それは陸地が完全無視できる距離範囲での土を積載した大型筏の曳航によって相染神とともに日本列島北部に伝わったとする指摘であった。事実、相染神信仰が東北地方に広く伝承、分布することもそれを物語るものと思われる~後略」

「エミシの馬 -狄馬-」 黒済和彦 『馬と古代社会』 佐々木/川尻/黒済 八木書店 2022.1.15 より引用…

確かにこれなら、
・モンゴル系をダイレクトに持ち込める
・岩塩→製塩と変更すればノウハウ上の謎は解消可能
・特に陸奥馬が珍重された理由である中型馬の系譜(出土する馬の動物遺存体は小型馬が殆ど)の説得力が増す
ら、遙々の問題は解決可能だが、馬具の薄さらからか、あまり支持を得てはいない模様。

特に、北海道での出土遺物が、先の余市「大川遺跡」になる…
いや、もう一件これには記載がある。
恵庭市柏木東遺跡(茂漁古墳群ニ号墳)の鉸具と留金具。
恵庭市と言えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
八世紀頃だが終末古墳群もある。
だが…そこまで。
この二点だけで、牧の存在や搬入ルートを説明するのは無理がある。

如何だろうか?
少なくとも、五世紀の古墳時代には馬が東北に入り、飼育が少しずつ広がって八~九世紀、38年戦争の頃には量産体制に至る…その過程で、馬具としての怪獣や獣皮革の必要性から、北上周辺での続縄文文化集団と古墳文化集団との交易が盛んに行われていた…この辺までは言えそうである。
アヨロ遺跡の井戸様遺構、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
これらから鑑みても、古墳(続縄文)期、奈良,平安(擦文)期においても、北海道と東北は現在考えられているより遥かに「開かれた」場所であった事は推測可能なのではないだろうか?
それは、「馬」と言う小さな断片でも想像に易しい。
前述の、縄文と推測された馬の動物遺存体はまだ探し当ててはいないが、仮に「北の馬みち」が存在したならば、元々少数居たのか?その時代のものが混入したか?それらも考慮可能にはなってくる。
まだまだ謎だらけ。


さて、何故馬に至ったのか?
この件、元々は馬を追ったものではなかった。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
黄金と辰砂を追う段階で、阿弖流為降伏後に、胆沢周辺から2000人規模で関東への移住が行なわれた。
所謂「蝦夷(エミシ)の赤い龜」が、八王子 上ツ原遺跡で出土している。
これがコンパチならば、相模原や秩父で産金開始とが重なってくるのではないか?と、推測したから。
何せ、日本初の産金場は宮城県涌谷、38年戦争開戦のエミシによる桃生城攻撃から。
桃生城と涌谷は隣の様な地理関係。
そこから、先の辰砂に至り、その周辺でも同時期に私的「牧」の拡大らの話を教えて戴いた事から「馬」に至る。
故にテーマ的には、「蝦夷(エミシ)とは何か?」と言う事になるのか。
特別な存在ではない。
多くの東北人の先祖に当たる。
むしろ中世以降の農家が自給自足的に、何でもかんでも自己調達で賄った事を鑑みると、土豪を中心とした「(農業をも含む)工人集団」的な要素を持っているようにも見えてくる。
本書でも「牧」の運営には、鍛冶や製塩ら、特殊な工人が絡む。
集団の中で、産金や辰砂の採取,加工も含み知識と技術を持つ者が居れば、殖産のスタートが割とアッサリ始められる訳だ。
勿論、権力者が強い畿内においては、豪族や寺社で、長吏の下に工人衆として囲い込まれたであろうが。

まだまだ入口。
時代ごとにその対象が変わる「蝦夷、夷狄」とは、それぞれとんな人々なのか?
まだ入口。






参考文献:

千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日

「日本列島における馬匹と馬具の受容」 桃崎祐輔 『馬と古代社会』 佐々木/川尻/黒済 八木書店 2022.1.15


「エミシの馬 -狄馬-」 黒済和彦 『馬と古代社会』 佐々木/川尻/黒済 八木書店 2022.1.15