蝦夷衆交易の目的地「大なる町アキタ」…この際、ルイス・フロイス書翰も見てみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/22/203708

「秀麗無比なる鳥海山よ」…

秋田県民歌の出出しである。

ウィキより…

「石井歓作曲の吹奏楽混声合唱による『大いなる秋田』の第3楽章【躍進】では1、2番が混声4部合唱として挿入されている。」

これの練習で「大いなる秋田」で覚える県民もいるのではないだろうか?

そんな表現をされた有名なバテレン書翰がある。

北海道と秋田の関係を記すものとして、北海道でも秋田でもほぼほぼ史書資料編には登場する文。

このブログでも何度か断片は紹介しているが、「中世蝦夷史料」にも当然の如く載っているので、この際引用しておこう。

 

そのバテレン書翰とは?

1565(永禄8)年のルイス・フロイス書翰。

ルイス・フロイスは言うまでもなく、イエズス会の宣教師で「日本史」を書いた人物。

織豊期の史料として信長や秀吉らと直接話した逸話だけでなく、周りの武将らのと関係を示す一級品。

では、その書翰を引用してみよう。

 

「日本国の北方殆ど北極の直下に蕃人の大なる国あり。彼等は動物の毛皮を着し、毛全身に生じ、長き鬚髯あり、飲まんと欲する時は棒を以て其髭を上ぐ。甚だ酒を好み、戦闘に勇猛にして、日本人は之を恐る。戦闘中傷を受くる時は他に薬を用ひず、塩水を以て之を洗ふ。鏡を胸に懸け、頭に剣を縛し、其先端は肩に達す。法律なく、天の外礼拝する物なし。国は甚大にして都より三百レグワあり。彼等の中にゲワの国の大なるアキタと称する日本の地に来り、交易をなす者多し。日本人彼地に到る者あれど、彼等の為め殺さるゝが故に其数は少し。此種の事にして記すべきもの多しと云へども、本書翰は既に長くなりたれば及ぶ丈省略すべし。」

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫 三一書房 1983.5.31 より引用…

 

本音、この文章の前の部分を読んでみたいが、まだそこには至らず。

又、この後ろに書かれるハズだった内容は何だろう?

気になるところ。

 

さて、時代背景を。

1556年…

秋田湊を押さえていたのは当然ながら安東氏。

東公嶋渡りの「安東舜季」が1553年没なので、この時の秋田を押さえていたのは「安東愛季」になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/192830

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/30/170600

今迄も幾つか紹介したが、檜山と湊の両安東氏を統一して周辺を領地拡大すべく南部氏と抗争していた戦国大名

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529

この辺の貿易に関わりを持つ人物の一人(愛季は脇本城にも入っていた)。

勿論、蠣崎(後の松前)氏を率いた大殿で、蠣崎慶広を可愛がっていた。

では中央史では?

ルイス・フロイスは将軍足利義輝に謁見したり、永禄の変で将軍が討たれた事も記す。

前後して織田信長朝倉義景上杉謙信らと書状をやり取りしていたのも、中央の動乱が影響していたのも考えられるだろう。

嗜みの鷹狩の鷹だけではなく、蝦夷衆と直接やり取り→鞍の皮らの調達が可能。

北天の斗星も伊達ではなかったか。

 

 

参考文献:

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫 三一書房 1983.5.31