こんなに違う、住居文化…想像より北海道,樺太,千島で三者バラバラ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212
さて、「住居」の話である。
かなり降って湧く様にではある。
実は、今回の話は発注品番を間違って全然関係ない本を買ってしまったのだが…
届いてペラペラ捲る内に、そのうち調べようと考えていた事例が載っていた。
ムダにならんかった…いや、この際はご先祖や神仏が「こっちを読め」と啓示してくれたのだろう、と勝手に考える事にする。

では、出だしから解り易い説明なので、いきなり引用する。

「北海道において、竪穴式住居の使用は擦文文化の末期あたりまでしか確認されていない。いわゆる「アイヌ文化」の要素の一つである平地式住居の発掘例もまたきわめて少ない。「擦文」から「アイヌ」への変遷過程において、住居はカマドから炉へ、竪穴式から平地式へと移る。カマドの廃絶については、その過程を類推しうるだけの発掘資料が得られている。またその理由も、鍋の流入により効率的熱源として炉を再利用することにある、との有力な仮説が呈示されている。しかし、竪穴式から平地式への変化は、竪穴の深さが減少するところまでしかつかめず、その理由も明らかではない。」

「一方、北海道北方の島々では竪穴式住居の使用が明治期に入っても継続され、鳥居龍蔵博士をはじめ先学により紹介されている(2)。ことに注目されるのは、冬の家(Toi-chise)として使われる竪穴式住居である。ここの島々の人々は夏の家(Sawa-chise)と冬の家を季節的に使いわけていたことが知られている。通常、冬の家は竪穴式のものが多く、夏の家は北海道アイヌの家(Chise)に類似した規模・構造の平地式をとる場合がある。馬場修氏によるサハリンでの記録によれば~中略~季節により集落が移動するのである。藤本強氏は擦文文化において、季節による集落の移動を想定されている。しかし、住居構造は同一であると考えられている。一方、北海道アイヌの人々が、季節により集落を移動させていたという例を筆者は知らない。」

「竪穴式住居と平地式住居の季節的選択の一例」 石川直章 『考古学と移住・移動』 森浩一 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1985.3.20 より引用…

要約しよう。
①平地式住居は「擦文文化」→「アイノ文化」への変遷の構成要素。
勿論、竈→炉の変化も含む。これは鍋の導入によると思われる。
②但し、①の変遷が、「何時?何処から?なんの理由で?起こった」は、まだ謎。
③北海道より樺太,千島においては、明治迄竪穴住居は事例報告されている。
特に樺太では、夏→平地式住居で冬→竪穴住居と、集落を季節間移動する事例がある。
④季節間集落移動の事例は、北海道本島においては見られない。

以上。
前項で引用された金田一博士の説もあろうが、考古らと照らし合わせた学術的検証では、本道アイノ文化では季節毎に移動し住居を移動する実績はなく、住居文化が樺太,千島とは合致しない事になる。
竪穴住居は「消えるとされている」のだから。
現実、金田一博士も認める所だが、考古学見識や時系列の見方が抜けているのは御本人の指摘。
博士は樺太からの移住が先なのは踏まえて発言している。


さて、ここまで踏まえた上で、石川氏が紹介する別の事例。
アメリカの「ヒッチコック氏」が1889年に来日、北海道らの調査しており、その一部として記録されたものの様だ。
場所は色丹島
とは言え、この人々は元々色丹島在住ではない。
占守島ら北千島に住んでいたとの事。
1875年の千島・樺太交換条約で、我が国領となった後に、国防上の理由で色丹島へ移動した方々である。
ではどんなものか?

「調査時、色丹島住民は戸数は一八戸であった。人口は六〇〜六四人であろうといわれている。この数は移住以来五年間で1/3に減じている。これはら環境の変化と肺結核のためだろう、。かれらの衣服・宗教などは北千島にいたときからすでに、かなりロシア化されたものである。しかし、住居は独特のものである。」
「住居は夏用のかやぶきの家(thatched house)と冬用の土の家(earjh-dwellings)からなる。一八戸の住居はいずれも海岸べりにつくれている。このうち、二戸のみは冬の家だけで構成されている。他は冬の家と夏の家との間をおおいつきの廊下てまつないでいる構造を示している。 」
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ヒッチコック氏は、これに続いて「土蜘蛛」との関係について意見をのべている。それはさておき、サハリンにおいてカマドの使用例とともに報告されている土の家(Toi-chise)が、この報告では炉、そしてきわめて北海道の家(Chise)に近い形のものともに存在している点に留意すべきであろう。」
「平地式住居がもつ有利な点は種々ある。しかし、竪穴式住居のもつ利点は、まず「暖かさ」であろう。ヒッチコック以外の報告例の中に、これを裏づけるような聞き込みも記されている。平地式住居の採用が、すくなくとも北の地域ではすくに竪穴式住居の廃絶につながらないのは、このことが一因となっているのであろう。なお、サハリンにおいてもこのような類例が存在したらしい。明治三〇年代頃、サハリン東海岸、白浜の北、小田寒(いずれも当時の地名)において使用されていた、とのことである(3)。これらはいずれも、北海道存在のクループとは、厳密にいえば、別のグループである。したがって、これに例示したものが、直接北海道における竪穴廃絶の過程を示しているとは筆者も考えていない。しかし、地域的、気候的条件を考慮すれば、やはり、注目すべき形態といえよう。」

「竪穴式住居と平地式住居の季節的選択の一例」 石川直章 『考古学と移住・移動』 森浩一 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1985.3.20 より引用…

竪穴部は、地面を30~50㌢程度掘り込み、幅2m×奥行き2.25m×高さ1.3m程度で、平地部分とは廊下で繋がれ、狭いアーチを潜り中へ入る事が出来る。
中はベッドの他、炉が作られ暖かく眠れる様にされる。
屋根の上は土で被され、こんな竪穴部が1~2つ平地部に接続されており、樺太の事例の様に集落ごと移動するのではなく、家を使い分けた事になる。
これなら、夏涼しく、冬暖かくは実現出来そうな気もするが。

纏めてみよう。
①本道
擦文文化の竪穴→アイノ文化の平地…
だが、何時、何処から、何故変遷したか?は謎。
樺太
明治迄竪穴は使用。
集団により、冬は竪穴→夏は平地と、居住区を変えるのに伴って家の構造まで変わる。部分的に「竈」も残る。
③千島
特に北千島では竪穴,平地の併用家屋で、夏と冬では部屋を変える。

もっとも、これらは中世の遺跡発掘調査とリンクしておらず、あくまでも明治の調査の結果に過ぎない事も加味する必要はある。
一応、この研究段階での占守島で行われた発掘調査では、平地式住居の痕跡は無かった様だ。
仮に周辺調査らと整合出来てくれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
こんな人々の素性も少しずつ明らかにできたとは思われるが。
とりあえず、住居文化に差があるのは解った。
毎度ではあるが、中世との接続に問題があるのは否めない。
消えた中世に、北海道の先祖達はどんな風に暮らしていたのか?
まだ謎なのだ。








参考文献:

「竪穴式住居と平地式住居の季節的選択の一例」 石川直章 『考古学と移住・移動』 森浩一 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1985.3.20