https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440
さて、更に旧旭川市史を掘り下げよう。
本当の目論見は、新旧市史でどの程度記載内容のニュアンスが変えられているか?だったのだが、旧旭川市史でのアイノ文化の記載がかなり濃厚且つ新旭川市史では削除されているので、そんな視点で掘り下げ作業をやった方が良いだろう。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902
住居「チセ」である。
特に、チセの復元や「観光チセ」建築の第一人者は「萱野茂」氏なのは言うまでもない。
建築技術の保存は「観光チセ」建築と補修で維持されていると言っても過言ではない。
氏が「チセ再現」を手掛けたのは昭和3~40年代から。
簡略的且つ詳細を「二風谷遺跡」発掘調査報告書で記している。
では、同年代発行の市史にアイノ文化の住居はどう記載されているのか?
「住居をチセという。今日のアイヌの家はほとんど和風になって壁を塗り柾でふき、床板を張り、畳を敷いて仏壇から神棚までに至るまで何一つ和人とちがわないほどになり、日高・十勝の奥地には稀に従来のいわゆるチセを見るそうであるが、わが近文コタンには一軒もその面影を留めるものがない。外観では混在している和人の住居と全く区別がつかぬが、昭和三十三年弓成山にチセを古風そのままに造って公開しているので、それでその大要を知る事ができる。いったい何百年前までは多く冬季間は今も遺跡に残る立穴生活をし、夏は簡単な小屋に暮らしていたものである。立穴の住居は、深さ五〇㌢前後の窪地をつくり、柱を立て、屋根をおおて土を置き、一見塚の如きもので、冬季間は暖かくて住みよかろうが、空気の流通悪く、煙は立ちこみ、ことに夏は暑苦しくて決して快適な住居ではない。」
「次第に立穴住居が廃れて地上にチセを結ぶようになっては、もとより掘立小屋で、屋根はかや束を押しあててしばりつけたので、また一種の野趣あるだんだんぶきであった。壁も同じくかや束をおしあてたが、上川地方のようにかやの少ない地方では熊笹を用い、樺太では蝦夷松の皮を代用したという。木皮ぶきをヤラキタイ、笹ぶきをトブラキタイ、かやぶきをサルキキタイという。」
「家は母屋と、母屋につけるポンチセ(小さい家の意)とから成り、ポンチセは土間で玄関の用をなし、臼・杵・簑などを置く物置ともなり、雨の日の栗つき、粉ひき場ともなる。母屋への入口にはかやかあしであんだみすをかける。」
「旭川市史 第一巻」旭川市史編集委員会 昭和34.4.10 より引用…
上記引用は、金田一京介著「探訪随筆」から要約との事。
実は、事前にSNS上で、この竪穴住居を「トイチセ」といい、幕末位に消えたとご教示戴いた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
事実、幕末の第二次幕府直轄時の同化政策の中に衛生上の問題で「床を付ける事」が記され、時期的にはこれとコンパチ。
可能性では「竪穴→掘立」は、幕末の同化政策時にトイチセ放棄に伴い行われたとも言えなくはない。
何せ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/185111
未だに北海道には竪穴住居跡と見られる凹があると言う。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
まさかと思うが、我々は既に捉えていたのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/17/193429
早い話、こんな事例が「トイチセ」ならば、時代は下り得る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/25/202424
編年指標の見直しで時代が下った竪穴がトイチセであると立証出来れば、北海道の失われた中世の姿が見えてくるハズなのだが。
実は、今迄も住居について取り上げて来たが、民俗系で竪穴の時代が下る話はSNS上では聞いていたが、文献上で竪穴住居の話が記載されているのは、筆者的にはこれが初見で、新北海道史を含めアイノ文化を持つ人々が竪穴に住んでいた事はほぼ記載が無い。
土器編年の問題か、竪穴住居の話は無く、中世には掘立住居に住んでいた話のみだった。
消されたとしか言い様が無い。
これは筆者の邪推だが、北海道の研究者、特に考古学に携わってる方は、おそらくカラクリを知っていると思う。
チャシに関係する発掘調査報告書を読んでみれば、「そこには所謂アイヌ民族なる人々はずーっと住み続けていた訳じゃないと『判断している』事」がちゃ書いているのだ。
その根拠…
①特に胆振~日高では江戸初期からの駒ヶ岳,有珠山,樽前山らの噴火で火山灰が降り積もっている
②本来ずーっとそこに住み続けているなら、周囲に建て替えしながらアイノ文化の遺構や遺物が残る
③実際は試掘段階で何も出ない場合、現状ほぼ重機を使って表土~火山灰層を除去している
④重機を使用すれば、当然遺構ごと破壊しているが、重機による除去が主流な上、それらを遺物の包含層としても取り扱いはしていないようだ
⑤始めから、何も出ないor火山灰降灰以後には人が住んでいないと、熟知してなければそんな事出来るハズ無い
→それを知っているから重機を使う判断が出来る。
因みに、重機使用は発掘手段を明確にする為に各発掘調査報告書に記載されている。
これから推定させるのは…
・仮にずーっと住み続けてるなら、火山灰層の途中も含め、それを挟みながら、遺構,遺物が検出されるハズ。
それが無いと熟知しているから重機を使うと。
・仮に先入観により熟知せず重機を使用しているなら、表土と火山灰ごとアイノ文化期の遺跡を自ら破壊している可能性に気が付いていない事に。
さて、真相は?
いずれにして…
ある一定年代迄は、竪穴住居に暮らす人々が居たと言う話は記載されていた事になる。
それが消されたのも事実。
萱野氏がチセの復元をしたのは、昭和中期。
ある意味その時期にチセの伝承が平取で完全に途切れていたら、氏は竪穴住居の復元までは出来ない。知らないのだから。
時系列的には矛盾は無いのだ。
ここまでは解った。
参考文献:
「二風谷遺跡 -沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度