本当に「竪穴→平地住居化はアイノ文化への変遷の指標」になるのか?…「新編天塩町史」に記述される幕末迄竪穴住居が使われたとされる事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/15/144234
さて、アイノ文化における「住居」についてである。
前項では、本道、樺太、千島では住居事情が違うと書いた。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212
旧「旭川市史」においてはトイチセ…所謂竪穴住居の事例を紹介した。
これは樺太の影響も考えねばならない。
で、「本道における竪穴住居使用」の事例を見つけたので紹介しよう。
「新編天塩町史」からである。
かなり具体的に記載されているので、まずは引用から。

「幕末(文久元年=一八六一)にこの地の赴任した庄内藩士原半右衛門の残した「蝦夷地風俗絵巻」にある〈テシオの風景〉には川口基線遺跡ないし、そのごく近隣と思われる箇所に「夷人の家」として屋根が直接地上に葺きおろされた表現をとり、和人の側壁を有する住居と明らかに区別できる数戸の竪穴式と思われる住居群の描写が認められる。そのような描写は、数カ所に認められ、位置の比定は正確にはできないが、ひとつは、川口基線遺跡の同期の竪穴外から近世陶磁器、吊耳式鉄鍋など近世遺物の出土がみられ(大場・山崎、一九七一)、近世のある時点にアイヌの人々が同遺跡の範囲内に居住した可能性は高く、何らかの形で幕末まで竪穴居住の風が存続したことも十分に考えられる。また、前述のように東大の調査に際しては、「江戸時代末期以後のもの」と推定される遺物が出土しており、また明治期におけるアイヌ居住の聞き取りがあるように、アイヌの人々は明治に入っても継続して当遺跡の界隈に居を定めていたことは確かのようだが、おそらく、竪穴居住の風は当時すでに廃用されていたのであろう。」

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15 より引用…

ポイント…
①第二次北方警備で天塩周辺を担当した「庄内藩士」が「夷人の家」として竪穴住居と思われる住居を記載している。
②それは正確に場所特定は困難だが、川口基線遺跡らの遺物と概ね合致し、幕末まで竪穴住居を使用していた事が考えられる。
③明治期では、聞き取り調査らで竪穴住居の使用は検出されず、明治期にはその風習は失われて平地住居へ住んでいた。
と、言うもの。
単に伝承だけではなく、古書記載と考古遺物とが概ね合致している事例と言えるだろう。

「新編天塩町史」のこの記述の後には、明治の樺太での話が続く。
トイチセを使っていた樺太の事例では、多来加(タライカ)で明治38(1905)年段階で悪性感冒流行の為の居住地放棄で竪穴住居の使用を止めたとある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
実は、穴居跡を記した松浦武四郎の「蝦夷日誌」でも天然痘流行の際に、居住地より奥地に逃げた話は記述あり、当時感染症は厄神の祟りと考えられた事は知られた話。
実は、ここでは「竪穴の不衛生より、文明接触で持ち込まれた」のでは?と説明しているが、多来加と言えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
既に獲った獲物を交換して暮らす「交易の民」なのだが。
当然、後の久春古丹ら樺太場所もあり、全く未開の地…なんて事はないであろう事は、通史で見れば気がつくことなのだが。
まぁそこは置いておいて…

ここでは、幕末まで竪穴住居の使用記録が記載。
前項にある様に、本道のアイノ文化期への変遷要因に「竪穴→平地」居住があるとするならば、ここ「天塩周辺」においては「幕末」になるという矛盾が生まれる。
まさか、アイノ文化期への移行が幕末だ、などとは言えまい。
なら、本当に「竪穴→平地住居化」をアイノ文化期移行への指標として使えるのか?という疑問に辿り着くハズだ。

我々が今迄学んだ中で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
こんな幕府が出した触れの一件がある。
これならむしろ、幕府直轄での衛生指導で床張りとなり、竪穴→平地住居化が進んだ…こちらの方が説得力があるような気がするのだが。
更に…
何せ、学術調査は観光アイノより遅れる。
勿論、チセの再現はそれより遥かに時代が下る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902
何せ、再現した萱野茂氏は「昭和6年に父親が建てたチセの記憶と古老のアドバイスをもってして昭和30年代の観光チセを再現した」とハッキリ書いている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
明治・大正で既に「観光アイノ」がはじまっているので、これら住居事情がひっくり返る危険性はあるのだ。
本当にそれは「チセ」なのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134
まぁ我々の疑問に対する答えとしては、出来すぎなのだが。
少なとも、松浦武四郎も「夷家」は一発で判別していた模様。
わざわざそう表現しているので特徴があった事は示唆される。
体系的に積み重ねられている「学問」の中で、これ、大丈夫なのか?。
ぶっちゃけた話をすれば、近世アイノ文化の痕跡を探す為に考古学上で掘立の柱跡を探しているが、仮に幕末近く迄竪穴に住んでいたなら、それは全く的外れになっちまう危険性が出るって事ではないのか?
で、それを研究者は知ってるハズだ。
何故なら、火山灰は重機で取り去ってるから…。
そこに近世の遺構はないものとして発掘をしているからだ。
穴居は全て擦文文化期らのものだとして。

さて、どうだろう?
これは、地域の教育委員会らで見解が違う可能性もあるので、他の史書らも確認していく必要はあるし、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/182851
古い時代の研究では地域差があったり、移動痕跡を指摘しているので一様ではないかも知れない。
とすれば…
断片だけで判断する限り、「竪穴→平地住居化」はアイノ文化期への移行指標として使う事は出来ない危険性が出てくる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/120652
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
まぁ住居事情だけでなく、「夷語」も江戸期途中で失われていた指摘がある。
驚く事ではない。
むしろ、体系的に組まれているハズの「学問」の方がこれらを「忘れてしまっている」事が驚愕に値するのかも。
いや、学問はちゃんとしている上で、政府広報らが歪めている危険性もある。
だが、それなら「政府広報らは間違いである」と、学問に身を置く者が糺さないのはおかしいと考えるのだが。

さて、真実は何処に?
普通に幾つかの文献を読むだけで、この位の疑問は出てくるが…







参考文献:

「新編天塩町史」 天塩町 同成社 平成5.3.15