ゴールドラッシュとキリシタン-29…近代北海道にもゴールドラッシュは発生していた。そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
さて、近世以前での金採掘については、幾つか話をしているが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/20/185409
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849
明治以降、近代においても金の話は地方史書に幾らか記載がある。

今回はそれをピックアップしてみよう。
北海道の採金は「寛文九年蝦夷乱」を理由に一時停止に至る。
その後、例えば天塩の羽幌の海浜での砂金発見らで松前藩吏と鉱夫が派遣されたが、反乱風説や採掘量の問題であまり盛況を見ることはなかった様だ。
似た話は「新北海道史」や各市町村史にも記載はあるのでご確認戴きたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
元々、「赤蝦夷風説考」でも北海道には鉱物が豊富だという事は記述され、後の時代も検討事項になっていた事は推測に易しい。
では本題。
「北辺のゴールドラッシュ」と言う著書による。

①雨宮砂金採取団…
「雨宮敬次郎」が率いた金堀衆。
甲州の方で、むしろ「投機界の魔王」と言った方が有名なのだろうか?
明治19年頃、「榎本武揚」に掛合い、道内の鉱業実力者「山内提雲」に働きかけ道南~石狩の採金許可を取ったそうで。
が、問題は金堀衆。
雨宮家へ出入りしていた山形の古物商「佐藤清吉」へ相談。
そこで目をつけたのが山形は寒河江の「小泉衆」。
月山から最上川へ注ぐ寒河江川流域では、古来より砂金を取っていた。
これは筆者も2年位前に「寒河江市郷土館」で採金道具の展示をしていたのは確認していた。
が、当然古来からの砂金場としても、明治初期にはほんの少ししか取れぬ様になっていた。
基本的に寒河江は肥沃故に専業農家が主。小泉衆は多くが小作で、当然生活が苦しく、砂金から得られる収入は貴重で、中にはそちらを専門にする者が。
少ない砂金をより多く集める為に、技術が高まった様だ。
その中に「菊池定助」と言う親方がおり、その人物に声を掛けた様だ。
ここでの条件は菊池定助にとっては破格。
旅費,食費ら経費一切は雨宮家持ちで、報酬は当時の金額で15~20円/月で3ヶ月分の前払い。但し、帰国の際に服装,荷物検査をしても文句を言わない事。
当時、小作での収入が一年で10円だった様なので、およそ桁違い。
菊池定助親方率いる小泉衆は、国縫から利別川へ入る。
最早薄くなった寒河江川で鍛えられた金堀衆はいともあっさり砂金を掘り当てたと言う。
月給制なので採った砂金は全て菊池定助→佐藤清吉→雨宮敬次郎と渡るだけ。
金堀衆にとってはかなり気楽な労働だったらしい。
何より菊池定助親方の指導が厳しく且つ的確で、参加した者達も半年間位で一人前になったとか。
で、3回目の採金の時に、途中に入っていた佐藤清吉の変わりに若い監督がついたが、この人物が2貫目の砂金を持ち逃げ、保証された食料を送らず採金団は飢餓寸前となり、小泉衆や菊池定助親方と雨宮の関係がギクシャクし破綻し、縁が切れる事になる。
翌年から、菊池定助は親方から外れ、佐藤清吉が直接率いる事になるが、菊池定助に鍛えられた金堀衆はその技術を発揮し、気合の入った者は日高の沙流川新冠川らにも探索。
トナシベツ川の大砂金場を発見するまでに至っていったそうで。
この辺で噂を聞きつけた素人の密採者が増え始め、当局も厳しくなってくる。
鉱区主を名乗る者が佐藤清吉に書類不備を指摘し砂金と食料を没収。
佐藤清吉は裁判まで戦うが結局敗訴し没落。
親方から外れていた菊池定助に纏められ小泉衆は帰投する事となる。
この後、この採金団はまた北海道に向かうが、既に雨宮や佐藤の様な資本家を失い、お互いが疑心暗鬼で争いが起こる様になり、明治27年段階で解散される。
菊池定助はその後も北海道各地で金堀を続けた様だ。
明治37年、拠点とした雨竜村で息を引き取る事となる。
この、菊池定助に鍛えられた渡辺良作ら小泉衆の技術や経験を受け継いたもの達が、後のゴールドラッシュを牽引していく。
やはり山形県人が数,質で他を圧倒し中軸を成したとの事。
現実的には技術あらば、明治でも北海道で砂金を掘り生業とする事は可能だった事になる。
採れない=技術の差…なのだろう。
因みにどの暮らした採れたのか?
本書には詳細がないが、先述の3回目で持ち去られた「2貫目」を例にして現在の価格の概算なら…
1貫目→3.75kg×2=7.5kg
当時は金が4円/1匁(3.75g)として、
4×2000=8000円。
当時の1円→現在の3800円とすれば、
8000×3800=30,400,000円か。
概ね三千万円…あくまでも指標と考えて戴ければ。
3回目は50名近かった様だが、シーズン途中である事を考えれば、もっと採れたって事なのか。
砂金は純度が高いとはいえ、あくまでも参考。


②枝幸ゴールドラッシュ…
この時代の砂金については「トッド夫人」の予言がつきまとうそうだが、直接関係無いとあるので触れない。
第一発見者は諸説あり。

「もっとも、ネコとカッチャを背負って山深く分け入り、川から川を渡り歩く砂金掘りたちの秘匿された行動か、大漁に酔っている村民の眼にとまる機会は極めて稀であった。」
「しかし枝幸砂金の黄金時代をもたらす動機は三十年以降の惨憺たる不漁であって、この不漁こそが砂金発見の立役者であるということ、また飢餓に駆り立てられた窮民の山野を彷徨するさまが、大時代な文章の背後に痛々しいほど感じられる。」

「北辺のゴールドラッシュ」 日塔聡 北海道出版企画センター 昭和57.6.15 より引用…

引用文の間には、明治32~33年頃の新聞報道らの記事が記載される。
著者の記事確認では初見が明治27年北海道庁枝幸郡礼文村のベシトコマナイで金の試掘許可を出したと言うものだそうで、天塩方面から天塩川,名寄川を伝い枝幸方面へ入ったものと考えている様で、騒ぎになる前数年間は暗中模索していた様だとある。
地の人々もニシン豊漁で山には全く注意を向けてはおらず、世相から隔離された状況が明治30年からの不漁で生活が困窮しだした所でそんな金堀衆に気が付き出した…こんな感じ。
噂では「枝幸に砂金がある」と言われていたが、明治31年6月に堀川泰宗が科学的調査で枝幸海岸から幌別川を遡り、「バンケナイ金田」を発見。
ここからゴールドラッシュが開始される。
①7月、未経験者や漁民3~400人の密採者がバンケナイに入り込み1~1.5匁/日収穫
②8月、20人の密採者がウソタンナイに入り砂金場発見、2~30も/週収穫
etc…

「このように誰も彼も砂金熱にうかされる要因の一つは、もちろん希有の凶漁であるが、ちょうど薄漁期に入った明治三十年に金本位制が実施され、これが刺戟剤となったことも見逃すことができない。」

金本位制というのは貨幣価値の単位を一定量の金で決め、法律で金貨を鋳造し流通させる制度である。明治維新の新政府は、幕藩時代のの混乱した貨幣制度を統一するため銀貨を本位貨幣とすることにしたが、世界の大勢から金本位制をとるべきだという意見に圧倒され、明治四年「新貨条例」によって金本位制が実施された。ところが新貨幣は信用がなくて容易に普及せず、日本では金の産出が少ないのに政府が紙幣を濫発したため、金貨は海外と流通以外の面にどんどん流出しはじめた。そこで金本位制の維持は困難となり、明治十一年の布告によって、従来貿易だけに法貨として認められていた一円銀貨を、国内取引にも法貨として認めることになったが、ついに十七年には「兌換銀行法条例」の発布によって銀貨で兌換することを定めた。当時の正貨は銀貨がほとんどで、貨幣制度は事実上銀本位制に移った。しかし、銀の価格は下落しつづけ、金本位国との貿易は著しく不安定な上に資金の輸入も困難とあって、銀本位制の可否が再び議論の的となった。この情勢に対処するため、二十六年貨幣制度調査会が組織され、審議の結果多数によって、貨幣制度の改正と金本位制の採用が決定した。その後間もなく日清戦役が戦勝に終り、清国からの賠償金二億三、〇〇〇万両を準備議論として金本位制をとることとし、三十年三月「貨幣法」を公布、十月から実施した。〜中略〜枝幸砂金の登場は、ちょうど金本位制を実施して、朝野を挙げて豊富な産金を渇望しているときであったから、砂金熱はたちまち燎原の火のように燃え拡がっていった。」

「北辺のゴールドラッシュ」 日塔聡 北海道出版企画センター 昭和57.6.15 より引用…

金本位制は、国の金保有量に比例して紙幣発行するので、産金(保有)能力が紙幣量に効いてくる。
戦争の賠償金やら含め、金保有量は経済にダイレクトに繋がる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055
我々グループが富や経済、鉱物に拘るのはここ。
人は感情だけでは動かない。
机上の計算や心情で現実世界が動くなぞお花畑もいいところ。
富や利権に触れない歴史家は信用しない。
SNS上、これらを上げてもあまり反応が無いのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/27/200716
これらが如何に重大か?、上記貨幣制度を見て戴ければ解るかと。
経済の行き詰まりは戦争すら引き起こす。
身内同士の金銭トラブルは、他人のとのトラブルより酷くなるのが世の常。
歴史上、金銀銅ら鉱物の産出は他国との関係を見る上で重要。
中世貿易も銅貨輸入は寺社から。
古代から鉱物産出地である「山」を抑え、技術を持つのも寺社。
歴史上の出来事も経済,宗教らは全て絡む…と言えるだろう。
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「明治さんし、三十一年と追討ちをかけるように襲いかかる不漁も、思いもかけぬ砂金発見によって救われ、冬期の餓死者に備えて親方衆が順にした米噌も取越し苦労に終った。」

「北辺のゴールドラッシュ」 日塔聡 北海道出版企画センター 昭和57.6.15 より引用…

これだけでなく、後も暴風や時化に襲われ漁民は困ったが、ナマコやホタテ,ホッキらが打ち寄せたりして、砂金と合わせ人が集まり活況となったようだ。
また、川岸の大木らは根の周辺が掘られて暴風で倒木、川の流れで根の周辺には砂金が多く溜まっていた為の様だ。
多くの金堀は無許可の密採者だったが、当時の宗谷支庁は元々の不漁で発生する窮民を救う事を重視して、事実上黙認の形を取ったという。
このゴールドラッシュは、枝幸郡だけに留まらず、紋別郡(雄武)らに波及し、不漁であえぐ人々をむしろ潤し、村内は活況を帯び、米噌や酒らが売れ、越年の心配どころか門松を備える始末。
時に数千人の金堀が集まり、春にワラジやツマゴ、アイノの鮭皮のケリだった者達は、秋にはゴム靴に変わっていた。当時ゴム靴なぞ庶民には手の届かぬものだったが。
一時、砂金に真鍮を混ぜて砂金商に売りにくる者が居ると噂は立つものの、元々が不漁による窮民、そんな事が出来る程の余力は無いので、持ち込まれた内の七割は本物の砂金だったという。

事態が急変したのは明治32年度から。
上記の様に宗谷支庁は窮民対策として黙認の立場だったが、本来は明治26年の法施で札幌鉱山監督署経由農商務大臣の許可が必要。
つまり、その土地の鉱山採掘権が無ければ、採取不能。ある意味当然の話。
全道で出願申請ラッシュとなる。
許可を得た者は鉱主となり、一定料金を支払い砂金場へ…こんなスタイル。
申請者も元の枝幸の者だけではなく、稚内・小樽・函館、そして東京と話が拡がるに合わせ拡大する。
更に川筋だけの出願から、一山全ての許可を取る様な話も出てきて大規模化していった。
当然、警察力がまだ弱い地方の事、密採者を弾き出す為に見回りや取締役を雇い、自自費で権益を守ろうとする。
一触即発まで行くようになるが、そこは広大な北海道、締め出しを喰らえば他の場所へ…、目立った暴力沙汰は大々的に報じられていない様だ。
明治32年にベイチャン砂金場が発見され、ゴールドラッシュはピークを迎える。
もはや場所により、採取者が押し寄せ下を向けなくなるとか、食料が尽きた所を他者から砂金で買い込んだ、食える野草が取り尽くされ何も無くなるetc…仕舞に小学校の高等科では「砂金採取の為欠席者多し」とまで記録される。
当然、採取量が多い内は素人でも採れるが少しずつ退潮の兆しは見えて当然な程、押し寄せた模様。
その内、料金は値上され、元々窮民で各地から集まった者はその日暮らし暮らしへ近付いていく。
当然多くは密採者。
役所でも実態が掴めず、当時の正確な産出量は解らないそうだ。
また、当初無かった河水や沿海海水の汚濁問題が発生し、採取期間の設定ら沿岸漁業に影響しない対策が練られたりする。
新金田発見も段々底をつく。
それでも「東洋のクロンダイク」と謳われた噂が先行し、山中には小屋が立ち並び、料理屋や飲食店、床屋に風呂屋,商店、そして白首(ゴケ、売春婦)が集まり市街地が出来ていく。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519
この辺は、鉱山町にある世の常。
明治33年には採掘区の厳格化や鉱主が採掘事務所を開設し利用料徴収,管理、この市街地の便利さ含め密採者は減り、正規手続きで採掘する方向に落ち着いていく。
段々と産出量は落ち込み、ゴールドラッシュは終焉を迎えていく。
砂金採取は現実、昭和までは行われた様だが、現在は「ウソタンナイ砂金採掘公園」
「ペーチャン川砂金掘体験場」等幾つかの記念公園的に運営されて、その片鱗のみ残っている様だ。
概ね、明治の数年間をピークとし、人々が酔いしれた話。


さて、どうだろう?
紹介した事のある様似町や旭川市史書に残る事例のみならず、実際には北海道の各地で採金事例はあり、その拡大で源鉱脈が他の鉱石も含めた鉱山として大規模運営されたりしていった様は想像に易しい。
そこには、豊漁→凶漁となったニシン漁での貧困問題らも絡んでいた様だが。
こうした社会背景で、ゴールドラッシュが発生した事になる。

と、ここで終ったら、本ブログを読んで戴いてる方々に少し物足りないかも知れないので、折角なので一石投じてみようと思う。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/08/204935
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/10/093212
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
近文コタン形成と民族運動発生のきっかけの一つは第七師団の敷設に絡む土地問題。
大きくは「地上げ屋の暗躍」。
ただ、原野に近い土地を都市開発するにしても、全国の地上げ屋が注目する程の話題になるのか?…少々引っ掛かるところ。
何せ都市開発に対する莫大な投資も必要。
既に都市開発された本州の都市の拡大の方が効果出そうなものだ。
だが…「砂金」が出たら?
得た砂金を元手に買収費用や開発費用に充当可能。
つまり「呼び水」として着目させるには十分な破壊力を持つのではないだろうか?。
上記の通り、一番最初、雨宮敬次郎の採掘権申請は明治19年頃で、ゴールドラッシュは明治30年から。
対して、旧土人保護法対象の人々に土地供与し農耕をさせる話が出たのが明治18年で、旧土人保護法制定が明治32年
時期が妙に符号する。
利権が一つであり、事態がハッキリ見通せないなら動き憎いが、どちらに転んでも良い様にしておけば…


まぁ、此処までにしておく。
何方にしても土地利権の絡む事。
その時期に山師も地上げ屋も投機家も、ウヨウヨ北海道に居た事は間違い無し。
そんな社会背景を忘れてはいけない。







参考文献:

「北辺のゴールドラッシュ」 日塔聡 北海道出版企画センター 昭和57.6.15

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10