時系列上の矛盾、厚真町⑥…「一里沢遺跡」Ⅲ層Cに眠っていた「ワイヤー状鉄製品」、そして「硯?」とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537

久々に「時系列の矛盾」厚真編を。

「一里沢遺跡」である。

実は、厚真の中世遺跡とされる発掘調査報告書は少しずつ増やしている。

ダウンロード可能になってきているのにわざわざ紙媒体で入手しているのは、いずれ同時代の遺構や遺物を並べて見たいから。

薄いながら、白頭山-苫小牧火山灰層(946年降下)~江戸初期の火山灰との間の黒色土層は貴重なのは間違いない。

ここで、何故「一里沢遺跡」に着目したか?

実は遺跡総覧を確認した時、「ワイヤー状鉄製品」と言う文言を確認したから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「コイル状金属製品」はこんな感じで、10世紀以降の擦文文化期から検出開始、一度断絶してから近世に再登場というのが、簑島氏の見解。

なら、ワイヤー状鉄製品とは?…

ぶっちゃければ、こんな感じ。

では、発掘調査報告書の内容を確認してみよう。

 

まずは、基本層序。

Ⅰ層…表土

Ⅱ層…近世火山灰層

それぞれの火山灰と時期によりa~eに分かれる

Ⅲ層…黒色土層

aは砂質シルトが混ざり1cm程度、近世土層。

bはシルト混ざりで5cm程度で、下方に白頭山-苫小牧火山灰層(946年降下)があるので、946年~中世の土層。

cは砂質シルト混ざりで15cm程度、遺物らより縄文後期~続縄文~946年迄の土層。

注目している層序はここまでなので、以後割愛する。

又、Ⅲ層bは約5cmを上中下(U,M,L)の三層に分ける試みをしている。

この辺は、他の一連の発掘調査報告書と共通である。

遺構は、

・焼土×7…

層位はⅢ層Cが5、Ⅲ層BLが2。

7箇所での炭化物やフローテーションサンプルの検出無し。
・土器集中×2…

Ⅲ層BLが2。

・礫集中×1

Ⅲ層BL。

・土坑跡×1

Ⅳ層(Ta-c、縄文時代樽前山火山灰)

で、焼土跡からの炭化物検出が無いので、C14炭素年代測定が出来ず、細かい年代特定が遺構からは出来ず。

また、遺跡上部に三間×五間の建物跡と見られる(江戸初期の火山灰降灰後)遺構や植林による土層撹乱があちこちで見られる。

各遺構は2~3cm黒色土層が被覆している。

上記、土器集中遺構での土器は、擦文土器に属するとしている。

 

では、Ⅲ層の遺物は?

遺構からの直接出土が無いので、全て包含層出土遺物となる。

 

「1. 土器 (図Ⅱ-6-1 図版 38-2-1)

Ⅲ層包含層から出土した土器の内、 図示できるものは1点のみである。 1は横走縄文を施した胴部 破片である。 続縄文時代前半汐見式に相当する。

2. 礫石器 (図 Ⅱ-6-2~9 図版 38-2-2~9)

2~6は砂岩製のたたき石。 2・4・5は棒状礫の先端部に近い腹面に敵打痕が残る。 3稜を持つ棒状礫 の側縁と腹部稜上に、6は側縁に敲打痕が残る。 7 は砂岩製の台石、平坦面稜近くに敵打痕が残る。8 は泥岩の滑沢面のある礫、 9は砂岩製の線条痕のある礫。

3. 鉄製品 (図Ⅱ-6-10~14 図版 38-2-10~14)

10 は鉄鍋片。 調査区南側、 尾根から南に向かって傾斜する斜面上部から出土した。

11 ~ 13 は鉄線を2-3本束ねてリング状に成形した鉄製品。 11は板状の鉄片が付着しているが錆が著 しく全体の形状は不明。 14 は鉤状の鉄製品、 断面は円形をなす。 形状・サイズより鉤針の可能性があ る。 11~14は調査区南端部斜面下から出土している。

4.石製品 (図Ⅱ-6-15 図版 38-2-15)

10 と同様、 調査区南側、尾根から南に向かって傾斜する斜面上部から出土した。 裏面に丁寧に研磨 された面を残し、 直角に近い角をもつ。 硯片か、よく水をはじく。 粘板岩製。」

 

「一里沢遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書16-」  厚真町教育委員会  平成29.3.24  より引用…

 

以上の通り。

注目していた「ワイヤー状鉄製品」は、2~3本位の鉄線を束ね、径2~4cmのリング状にしているようだ。

正直に言えば、筆者が注目した理由は、ワイヤー単品での出土でコイル状金属製品との互換性がないか?と考えたから。

早い話、コイル状に巻く前の段階を捉えれれれば、自分達で巻いて作った可能性が出てくるから。

だが、そうではなく、何らかの意図で針金を束ねた製品又は、半製品の様だ…残念。

さて、これはなんであろうか?

それら記事は無い。

仮にこれが、コイル状金属製品と同質の物なれば、今迄の出現が10世紀なので、それが946年以前迄遡る可能性が出てくる。

 

さて、それより驚いたのは「硯?」の存在である。

粘板岩で、表面研磨されよく水を弾く…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/03/193625

我々的には、メンバーとの検討を始めた時点からずーっと「古代北海道には必ず文字はある」と言い続けてきた。

だが、今迄、古代~中世での硯は風字硯や転用硯ですら検出された物は読んだ事がない。

これで、研磨面に墨跡でも検出すれば、何せ江戸初期の火山灰層被覆はバックホーで掘削している(本書にもTa-b迄バックホー除去の記述有り)以上、それより以前から識字率を別として文字があった痕跡と言えよう。

何せ、硯は文字を書く以外の用途はないであろう。

が、残念ながらここまで。

ワイヤー状鉄製品同様、記事は無い。

ここで注目したいのは土層である。

属性表の通り、これらの層位はⅢ層cで、白頭山-苫小牧火山灰(946年)となる。

下って946年、遡れば続縄文期位迄であろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914

7世紀位なら、こんな事例はある。

かなり朝廷らに近い技術を持った者の北上痕跡らしきものがあるので、胆振地域にはその様な人物来道の可能性の確率が格段に上がってくる。

さて、どうだろう?

勿論、あちこち撹乱ある上、包含層遺物故に明確な年代は解らず、中近世の物が混じり込む危険性もある。

謎は深まるばかりだ。

 

少しだけ、考察を入れてみよう。

①ここ「一里沢遺跡」にも、生活に直結する遺構は無い。

焼土跡は被熱痕で炭らの遺物が無い事から、何らかの作業はしたであろうが、見事に掃除でもされている事になるか。

何に使われた焼土なのだろう?

発掘の予備調査ではⅠ層で動物の骨が若干見つかり、Ⅰ~Ⅲ層での送り場らの検出を期待した様だが、焼土跡からはそんな破片すら無い。

属性表にあるように、集石遺構は叩き石と台石であり、何らかを砕いた事は間違いないであろう。

焼いてから砕いた?焼く前に砕いた?も不明。

遺跡の性質すら解らない。

 

②実は、この遺跡は上記土層の下で、縄文のTピットが多数検出、そちらがメインテーマになった事は否めず。

で、遺物についての記事はほぼ無く、抄録でも遺跡総覧のワイヤー状鉄製品ではなくリング状鉄製品と記事され、「硯?」は本文のみ記述で石製品に括られる。

文字の存在の可能性…これが表記される事はなかった。

勿論、慎重を必要とする場面ではあるが、本文以外に全く記述がないのはどうのだろう?

我々的には非常に残念である。

逆に考えれば、無数にある発掘された石製品の記述の中に、硯と思われるものはあるのかも知れない。

まぁ、ポジティブに言えば、気長く探そう…これに尽きる。

少しずつ探していこうではないか。

 

 

 

 

参考文献:

 

「一里沢遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書16-」  厚真町教育委員会  平成29.3.24